11月30日 待降節第1主日 「世界の終わりは新しい世界の始まり」

11月30日 待降節第1主日 マタイ24章37~44節 世界の終わりは新しい世界の始まり

 今日から待降節が始まります。典礼暦は今日からリセットされ、聖書朗読箇所もA年になります。待降節は英語でアドベントですが、これは到来という意味です。待降節第一主日の福音は、世の終わりについての箇所が読まれます。「それは先週のテーマとちゃうの?」と思われるかもしれません。しかし待降節はイエスの最初の到来を、そして現代のわたしたちは第二の到来である世の終わりに向かって歩んでいます。それに旧約の人々が救い主を待ち続けた思いを重ねて主の到来を準備するのです。

 イエスはノアの洪水の出来事と泥棒のたとえを通して、そのときはいつ来るかわからないと告げられます。洪水は全世界を飲み込んだとされていますが、実際に起こったことがもとになっているとしても地域的なものだったでしょう。それでもあたり一面が水に浸かってしまったときには世の終わりを思わせるに十分だったのではないでしょうか。そのときまでノアと家族以外は気づかなかったということですが、人の子、イエスが来るときも突然だということです。一方、「泥棒がいつやってくるかわからない」のが世の終わりのことだとすれば、再臨のイエスが泥棒にたとえられているようでちょっとおもしろいですね。もし実際にイエスが夜中に来られたとしても、泥棒だと思って懲らしめて追い出したらいけませんよ。いずれにしてもいつ来るかわからないから用意していなさい、ということを言われているわけですね。
 洪水で世界が滅びたことや「一人は連れて行かれ、一人は残される」という言葉から、神の裁きを警告されているように思えます。しかし、イエスは裁きを恐れて生きることよりも、神との出会いを待ち望みながら愛のうちに生きることを望まれているのではないでしょうか。世界の終わりはイエスがこの世に来られるときなのですから。
 SEKAI NO OWARIというバンドをご存知でしょうか。男性三人、女性一人のミュージシャンで一人はピエロの面をかぶっていると言えば「ああ、あの…」と思う方もいらっしゃるかもしれません。でもなぜそんな破滅的でぶっそうなバンド名にしたかというと、ボーカルのFukaseさんがADHDの障がいや入院治療などの厳しい生活を体験して「自分の世界が終わった」と絶望したときに、「自分には音楽と仲間がある」と気づき、「世界の終わりから始めよう」と思ったところからきているそうです。彼にとって、自分の世界の終わりは新しい世界の始まりだったということですね。

 先週の王であるキリストで世界の終わりを記念したわたしたちは待降節から新しい典礼暦年を始めます。世界の終わりから世界の始まりへとバトンタッチされたわけです。しかしそれはリセットされて元に戻るのではなく、一年前に進んでいます。世界を神の国の完成に導くのは聖霊とわたしたちひとりひとりの力です。日々の生活の中でのイエスとの出会いを大切にしながら、新しい世界に向かって歩んでいきましょう。

(柳本神父)

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