12月14日 待降節第3主日「来るべき方は貧しい人々とともに」

12月14日 待降節第3主日 マタイ11章2~11節 来るべき方は貧しい人々とともに

今日の福音は、ヘロデに捕らえられた洗礼者ヨハネが弟子を送って、イエスがほんとうに救い主なのかどうかを尋ねさせる場面です。もちろんヨハネもイエスもすでに公に宣教を行っているときのことです。救い主の誕生を待つ待降節にはふさわしくない箇所のようにも思えます。けれども、来るべき方がどのような方であるかを知って、新たな気持ちで救い主の降誕を祝うためにはふさわしい箇所であるといえるでしょう。

 ヨハネはなぜ、イエスが救い主であるどうか疑問に思ったのでしょうか。イエスに洗礼を授けるときに、聖霊によってイエスが来るべき方であることは示されていたはずです。ここで先週の福音を思い起こしましょう。ヨハネは、来るべき方は「聖霊と火で洗礼を授ける方」であり、「脱穀場をきれいにし、殻を消えることのない火で焼き払われる」方であると述べていました。火は裁きのイメージであり、脱穀場はエルサレムを表しています。権力の巣となったエルサレムを見捨てて荒れ野で宣教したヨハネは、エルサレムに巣食う権力者たちに天罰を与える方であると思っていたのかもしれません。たしかにイエスは権力者と対立し厳しく非難されましたが、彼らに罰を与えて追い出すことはしませんでした。
 イスラエルの人々は、メシアは王となるべき方だと考えていたので、ヨハネもイエスがいつ彼らを追い出して王位に就くのかを待っていたのではないでしょうか。それで自分の生涯が終わるかもしれないそのときに確認したかったのだと思います。
 それに対してイエスは「病人や体の不自由な人がいやされ、貧しい人は福音を告げ知らされている」ということをヨハネに伝えるように言われます。この言葉はルカ4章18節にある、イエスが宣教を始めたときに会堂で読まれたイザヤの預言と同じ内容です。旧約時代にイメージされていたメシア像は、イスラエルの王、ダビデ王の末裔といった指導者の姿であり、かつての王国を再現してくれる方でした。その一方イザヤ書では苦難を受ける主のしもべ、人々のために犠牲となる者、そしてこの箇所では貧しい人や病気の人、身体の不自由な人、苦しみを負っている人に救いを告げる人であることが預言されています。そのギャップがヨハネにも迷いを生じさせたのではないでしょうか。
 ヨハネは最後の預言者であり、教会の聖人です。とはいえ、一人の人間としてイエスの姿に戸惑い、不安を感じたのは仕方のないことです。しかし彼も、弟子たちが伝えたイエスのメッセージを受け入れ、喜びのうちに殉教したのだと思います。

 待降節第三主日は「喜びの主日」とも言われます。まだクリスマスの前ですが、喜びをもって主を迎える準備をするときです。わたしはピンク色の祭服があるという話は聞いていましたが、実際に見た、そして着たのは奈良ブロックが初めてでした。ちょっと照れましたね。わたしたちもヨハネのように疑うこともあるかもしれませんが、苦しみを受けている人々とともに喜ぶことができるように、主の降誕を準備しましょう。

(柳本神父)

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