1月11日 主の洗礼 「わたしたちも神の愛する子」

1月11日 主の洗礼 マタイ3章13~17節 わたしたちも神の愛する子

 主の降誕を祝う降誕節は今日の「主の洗礼」の主日をもって終了します。イエスが洗礼を受けられたあと、宣教生活、いわゆる公生活に入られます。それまでの生活を「私生活」と呼ばれることもありますが、降誕節はイエスが宣教に入る前の私生活を記念する期間であるといってもいいでしょう。そしてこの週から、典礼はイエスの宣教を記念する「年間」に入ります。

 イエスはなぜ洗礼を受けたのでしょうか。ヨハネも思いとどまらせようとして「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と言っています。イエスは神の子であるからあえて洗礼を受ける必要はなかったように思います。しかもヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」でした。罪のないイエスは悔い改める必要はないのではないでしょうか。
 しかし、悔い改めを「ターニングポイント(転換点)」と考えてみてはいかがでしょうか。悔い改めるという言葉の語源は「方向や場所を変える」という意味だそうです。背を向けていた自分を神のほうに向きなおす、これはたしかに回心ですね。イエスの場合はむしろ、私生活から公生活へ場所を変えるための出来事であったと考えられます。つまり、イエスの洗礼は宣教生活に入るためのターニングポイントだったわけですね。
 ターニングポイントは、人生の転換点ですからそこには特別なきっかけがあります。イエスは人間として生活されたわけですから、ヨハネのうわさを聞いて「自分も洗礼を受けたい」と思ったのかもしれません。またはヨハネとともに宣教したいという思いがあって荒れ野へ向かったのかもしれません。しかし、それに至るまでには父ヨセフの仕事を手伝いながら、毎日の生活の中で貧しい人々や体の不自由な人々とのかかわり、罪びととさげすまされている人々に対する思いの積み重ねがあったのではないでしょうか。それらの体験がイエスをヨハネのもとに向かわせたと考えることもできます。「正しいことをすべて行う」というイエスの言葉にはそのような思いが込められているように思います。
 洗礼のあと、「これはわたしの愛する子」という天の声が聞こえたことから、人間イエスはこのときから神の子となったという考え方があります。しかしイエスは生まれる前から神の子であったということはヨハネの福音でも明らかにされています。正しくは、イエスはこのときに改めて自分が神の子として歩む使命を自覚した、といえるのではないでしょうか。「天が開いた」というのもそのイメージで見ることができるでしょう。

 「洗礼の秘跡で神の子となる」といわれることがありますが、わたしは、洗礼は「神の子として歩む」ための秘跡であり、幼児洗礼は「神の子として育てる」ための秘跡であると思います。イエスも洗礼を受ける前から神の子であったわけですから。そして、イエスはご自分の父のことを、わたしたちにも「アッバ(父)」と呼ぶように教えられました。「わたしの愛する子」はわたしたちにも向けられている声なのです。

(柳本神父)

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