2月1日 年間第4主日「絶望を希望に変えることば」

2月1日 年間第4主日 マタイ5章1~12節a 絶望を希望に変えることば

 イエスはいよいよ本格的に宣教を始められます。その初期のこととしてマタイとルカに記されているのが幸いについての説教です。今日の箇所はイエスが山の上で弟子たちに語られた説教の一部であることから、「山上の垂訓」「山上の説教」と呼ばれてきました。それに対し、ルカは山から下りて語られたことになっているので「平地の説教」と呼ばれます。マタイはイエスが神の子であることを、ルカでは神の子が人となられたことをそれぞれ表しているのかもしれません。その冒頭にあるのが「幸い」についての教えです。

 ルカの福音では八つの不幸についても記されていますがマタイは幸いのみです。その第一に述べられているのが「心の貧しい人は幸い」です。ルカでは単に「貧しい人」なのですが、マタイのこの言葉に疑問を持つ人も多いのではないでしょうか。というのは、「心が貧しい」というと、いい意味では使われないからです。多くの人は、まわりの人の苦しみに無関心で、自分中心に考えるような人のことを思い起こすことでしょう。しかし、原文の意味は「霊において貧しい」であり、自分の弱さを知って神の助けを求めている人のことだと考えられます。天の国(神の国)はその人たちのものだ、ということは、神は必ずそのような人のところに来てくださるという意味を含んでいます。だから幸いなのだ、と。悲しむ人々、理不尽な世の中で正義を求める人々も同様です。それらの人々は神から慰められ、満たされ、神がともにいてくださるから幸いなのです。
 そして「柔和な人々」は「やさしい」というよりも、身を低くする人で、貧しい人という意味もあります。本田哲郎神父が言われた「小さくされている人々」の意味もあるといえます。また、「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」「義のために迫害される」人々は、そのような人々とともに神の国の実現に向かって歩む人のことでしょう。
 イエスは近くに寄ってきた弟子たちに向かって言われたと記されているので、彼らに指導しているように感じられます。「山上の垂訓」と呼ばれてきたのもそのようなイメージかもしれません。社長さんが新入社員に訓辞を垂れているような光景を連想するかもしれませんね。けれども、弟子たちの背後には大勢の群衆がイエスの言葉を聞くために集まっていました。彼、彼女らはイエスの指導を受けるためではなく、福音、良い知らせを聞くために集まっていました。生きる意味を見出せず、心の飢えを感じている人々に、イエスは「あなたがたは幸い」と叫ばれたのだと思います。

 自国第一主義、排外主義がまん延し、世界の平和が脅かされる社会の中で、イエスが語られるこれらの「幸い」は、神の国がどのような人々のためのものであるかを教えています。世界の現実を目にするとき、神の国はほんとうに実現するのだろうかと失望してしまいがちです。しかし、今日のイエスの言葉は絶望を希望に変える力に満ちあふれています。それだからこそ「福音」なのです。

(柳本神父)

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