2月15日 年間第6主日「そんな無茶な…しかし?」

2月15日 年間第6主日 マタイ5章17~37節 そんな無茶な…しかし?

今日の福音は先週に続く「山上の説教」の場面です。これまでの説教からは一転、きびしく戒める内容になっています。前回も書きましたが、これは前の節からの続きというよりも、いくつかのイエスの教えがまとめられたものだといわれているので、宣教活動の際に弟子たちに言われた言葉なのかもしれません。しかしこのきびしい戒めの中にも、見捨てられている人々への思いやりがあることがうかがえます。

イエスはまず律法について語られます。イエスは律法を完成するために来た、と言われます。しかし、このあとの宣教活動において、イエスの教えと行動は律法の細かい規定を越えているようです。それでイエスは祭司や律法学者から非難されました。しかし、イエスは律法の規定ではなく精神を守るように教えられたのです。
しかし、その教えはあまりにもきびしいように感じられます。というか、はっきりいって無茶ですね。とくに罪を犯すなら目をえぐり出して捨てる、手を切り取って捨てるというのはどう考えても残酷ですね。「わたしは地獄に行きたくないから罪を犯す手を切り捨てました」という人がいたら「それはやりすぎだ」と誰もが思うでしょう。また、「ばか」「愚か者」と言っただけで裁判にかけられ、地獄に投げ込まれるそうです。ほなら「アホ」はいいのかな。関西では親しみを込めて使われることもあるようですし。アホバカの分布や使い分けはともかく、人をけなしたり心の中で軽蔑したりしたことがないという人はまずいないでしょう。
ということは、「自分は正しい」「律法を守っている」と思って人を見下すとき、そこには神の思いから離れている自分がいるから気をつけなさい、とイエスは逆説的に戒められたのではないでしょうか。「地獄」も死後の罰というよりも、神から離れている心の状態であるということができます。ちょうど節分のあとにこの文章を書いていますが、「鬼は外」には心の中の鬼を追い出すという意味もあると言われています。それと似ているように思いました。吉野の節分は「鬼も内」だそうですが。
イエスは「自分は正しいとうぬぼれて他人を見下している人」に対して「ファリサイ人と徴税人のたとえ」を話されました。今日の教えもそのような人々や、弟子たちにちょっと思い上がっている傾向がみられるときに話されたのかもしれません。なぜならのちにイエスが教えられるように、最も重要な律法のおきては神を愛し、そして神が愛されている隣人を自分のように愛することだからです。
イエスの話を聞くために集まってきた人々の多くは、貧困や障がいのために律法を守ることのできない人々でした。イエスの極端な戒めは、そのような人々を見下すのではなく、同じ弱さを持った人間として尊重し、ともに神の愛を分かち合うよう勧められたのです。ここにイエスの見捨てられている人々への思いが表れていると思います。

(柳本神父)

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