2月22日 四旬節第1主日 マタイ4章1~11節 誘惑を退けられた人間イエス
先日の灰の水曜日から四旬節が始まりました。旬は上旬、中旬、下旬というように十日を表します。つまり四十日間という意味です。それでカレンダーで灰の水曜日から復活祭前日の聖土曜日までを数えてみました。そしたら「46日あるやないか!」と思ったのですが、伝統的に日曜日は主の日なので四十日に加えないそうです。それならたしかに40日ですね。今日はその第一主日で、イエスが断食を行っていたときの出来事です。
イエスは神の子ではありますが、この世では人間の肉体をもって生活されました。人間であるということは、感情や性格といった精神に属するものも持っておられたことでしょう。ですから、断食という修行のようなことも、神の力でホイホイとこなすのではなく、人間としての限界の中で行われたということです。そこには当然人間としての心の乱れや誘惑も感じられたことと思います。悪魔の誘惑もイエス自身の心の中で感じられたことなのではないでしょうか。その意味では先週出てきた節分の鬼に通じるものがありますね。さすがにイエスは豆まきではなく、自らの意思と聖書の言葉によって退けられました。
誘惑は三つです。三大祭りとか日本三景とかベストスリーのようになっているのがおもしろいですね。さしずめ三大誘惑というところでしょうか。では第一の誘惑です。石をパンに変えるという誘惑ですが、食べ物や物に対する欲であるということでしょうか。食欲や食事は人間が生きるために大切なものですが、こだわりすぎると大切なものを見失うことになります。先進国が食料を安く得るために、貧しい国で住民の土地を取り上げてプランテーションを行うこともあります。この世の命だけを考えて健康や快楽を必要以上に求めることもありますね。
第二の誘惑は神を試すという誘惑です。「試す」ということは神を相対化しています。「いろんな神さまにお参りしていちばんいい結果が出た神さまを信じよう」ということもあるでしょう。また、人を裁く、人の値打ちを決めるということは神のようになるという楽園の誘惑とも通じます。そして三番目、最後の誘惑は権力と富への誘惑です。これはわかりやすいですね。それを得るためには「わたしを拝め」と悪魔は言いますが、「拝金主義」という言葉がある通り、それらのものを何よりも求める人はすでに権力と富を拝み、それらに自分をささげてしまっているのです。
食べ物も財産も役職もこの世を生きるには必要なものです。しかし、注意しないとそれらのために大切なものを見失ってしまいます。それはなかなか困難なことですが、イエスはひとりの人間として、それらの誘惑に打ち勝たれました。ここに希望があります。イエスは模範を示されたとともに、わたしたちの分まで誘惑を退けてくださったのです。それはわたしたちの分まで罪を負ってくださったイエスの姿と重なります。こうして四旬節の始めに読まれる福音は、わたしたちをイエスの十字架へと導くのです。
(柳本神父)
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