3月15日 四旬節第4主日 ヨハネ9章1~41節 あなたはもうその人を見ている
先週に続き、洗礼志願者のための福音として選ばれている箇所です。先週はサマリア人の女性がイエスとの対話を通して心が開かれ、自分の町の人々にイエスのことを伝える内容でした。今日は目の見えない人がいやされる出来事ですが、その後のファリサイ派の人々とのやりとり、そしてイエスの証しに至る次第が9章全体にわたって記されています。
イエスの奇跡にはいくつかのパターンがあります。本人がいやしを願うもの、家族や周りの人がいやしを願うもの、そしてイエスのほうから声を掛けられるものがありますが、これはその最後のパターンです。
今日の福音では奇跡の前に弟子たちの言葉があります。それは「この人の目が見えないのは本人または両親が罪を犯したからですか」という質問です。そのように、当時の社会では、病気や障がいは当時、本人あるいは親、先祖の罪の報いと考えられていました。いわゆる因果応報ですね。悪いことをしたら自分に返ってくることはありますが、体の不自由な人を罪びと扱いするのはひどい話だと思います。昔は見世物小屋で「親の因果がこの子に報い…」なんて人権無視も甚だしい客寄せ文句がありました。しかし現代でも、「体調がよくないのは行いが悪いからだ」と言うこともあります。ある新宗教の教祖は「わたしの信者は震災で被害に遭わなかった」と公言しています。それって被害を受けた人は罪深かったという意味ですよね。
イエスはそのような考えに対し、「神のわざが現れるためである」と言って目が見えるようになさいます。たしかにそれは神のわざによるものでした。しかしそれで終わりではありません。このあと、この人は近所の人々、そしてファリサイ派の人々に起こったことを伝えています。これは先週の福音とよく似ています。サマリア人の女性も、この人も、イエスのことを「メシア」「預言者」「神のもとから来られた方」と伝えています。残念ながら今日の福音では、ファリサイ派の人々も近所の人々もイエスのことを受け入れず、この人も追い出されてしまいますが、自分が出会ったイエスをはっきりと証ししています。その意味では彼もイエスの宣教者であったといえるでしょう。彼が目を洗った「シロアム」の池も「遣わされた者」という意味であるというのも、このことを表しています。
会堂から追い出された彼は、イエスのところに行って初めてその姿を見ることができました。そして、彼がメシアかもしれないと思っていたイエスがはっきりと「わたしがそうだ」と言われたのです。サマリアの女性も、目が見えなかった人も、イエスに出会って心の目が開かれ、信じるようになりました。それは洗礼志願者がイエスとの出会いと交わりを深めるプロセスをかたどるものとされています。しかし、入信の秘跡はそれで終わるのではありません。洗礼・聖体・堅信によって、イエスと結ばれてイエスの福音を証しする役割が与えられます。この二つの福音は、そのことを表しているのです。
(柳本神父)
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