3月22日 四旬節第5主日「イエスは心に憤りを覚えられた」

3月22日 四旬節第5主日 ヨハネ11章1~45節 イエスは心に憤りを覚えられた

 今日の福音は、洗礼志願者のための朗読箇所の三週目です。今日はラザロの復活の出来事です。洗礼は新しいいのちへと招かれる秘跡ですが、イエスがマルタとマリア、そして姉妹のために集まってきた人々の思いに応えて奇跡を起こされたように、教会に集う人々が思いを一つにして洗礼志願者のために祈りをささげることが求められます。

 イエスはマルタとマリアの姉妹、そして兄弟ラザロと親しくされていたようです。もてなしをするマルタとイエスのそばで話を聞いていたマリアのお話はルカ福音書に出てきますが、ヨハネではこれが最初の登場です。なお、マリアはイエスに香油を塗って「髪の毛で足をぬぐった女である」ということですが、それはこのあとの12章に出てきます。この話はマタイとマルコでは「一人の女」となっていますし、ルカでは「罪深い女」です。一つの出来事が伝えられていくうちに変化したのかもしれませんが、イエスに向かう尊敬と愛のしるしであることには違いありません。
 イエスはラザロが病気だと聞いてから二日後にベタニアに向かい、到着したのはラザロが葬られて四日後でした。最初に迎えたのはやはり働き者のマルタでした。そして「ここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言います。あとでやってきたマリアも同じ言葉をぶつけます。「なぜすぐに来てくれなかったのですか」と責めているようにも思いますが、やり場のない悲しみをぶつけたのでしょう。イエスもすぐに行けなかった理由もあったでしょうが、悔しい思いをされたに違いありません。わたしたちも、よく「体が二つあったら!」「あのとき、そこにいたなら!」と思ったことがあることでしょう。そしてイエスも悲しんでいる人々の姿を見て、心に憤りを覚えられます。「心に憤りを覚える」とは、激しく感情を揺さぶられることです。これもイエスのやり場のない怒り、悲しみの表れです。なによりイエスの涙がそれを表しているといえるでしょう。イエスは神でありながら、人間として豊かな感情を持っていたことがわかります。その思いを父なる神は受け入れ、奇跡を起こされたのです。

 福音書の奇跡で死者を生き返らせたのはラザロとやもめの一人息子だけです。これらの奇跡も病気や体のいやしの延長線上にあるといえるでしょう。しかし、これらの出来事は、何より人間のいのちが死で終わるものではないということを表しています。
 先日、東日本大震災の津波で流された山根捺星(なつせ)さんの遺骨が14年ぶりに見つかって家族のもとに返され、「やっと家族四人で過ごせます」と話される映像を見て涙が出ました。遺骨があってもなくてもあの世で生きておられることは間違いないのですが、やはり家族にとっては体の一部であっても一緒にいると思えるしるしが大切なのでしょう。
 ラザロの復活はそのしるしなのだいえるかもしれません。イエスはわたしたちの思いに涙し、激しく感情を表されて救いを成し遂げられる方でした。

(柳本神父)

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