3月29日 受難の主日 マタイ27章11~54節 「十字架につけろ!」と叫ぶのは
今週からいよいよ聖週間が始まります。その始まりが今日の受難の主日です。ミサの始めに枝を持ってエルサレム入城を記念するので、「枝の主日」というほうが聞きなれているかもしれません。しかし、ミサ中の福音は受難の朗読です。このあと、聖金曜日に主の受難を記念するのになぜ今日も受難の朗読があるのか疑問に思われる方も多いと思います。そう思って調べてみたら、イエスの生涯の出来事は主日の典礼でも記念されるので、聖金曜日の前の主日にも主の受難の典礼を行うことになっているということでした。こちらがメインの福音なので、受難の朗読を中心に述べることにします。
聖金曜日にはヨハネによる受難の福音が朗読されますが、受難の主日はマタイ、マルコ、ルカの福音です。A年の今年はマタイの福音です。マタイの福音の受難といえばバッハのマタイ受難曲が有名ですね。わたしはちゃんと聴いたことはないのですが、イエス、ピラト、ペトロ、ユダやユダヤの指導者と群衆、福音史家マタイ(ナレーター)など、役割分担されているのは受難朗読と共通しています。
この前の26章では、イエスは捕らえられ、最高法院で裁判を受けたあと、総督ピラトのもとに送られます。ローマ帝国の属国であったイスラエルでは、反逆罪で処刑するのはローマ総督の権限であったからです。総督ピラトはイエスを釈放しようとしますが、群衆の「十字架につけろ」という叫び声に押されて処刑するよう引き渡します。
イエス断罪の張本人は祭司長や長老たちですが、扇動された群衆、そして自分の身を守るために引き渡したピラト、それぞれの思いの中でイエスは命を奪われます。誰が悪いのかというよりも、ローマに支配され、一部の人々が権力を握っている当時の社会状況のはざまでイエスは死に追いやられたといえるかもしれません。イエスを殺したのはユダヤ人だから排除すべきだ、などという考えはもってのほかです。しいて言えば、イエスの十字架にはわたしたちも含めてすべての人間に責任があるといえるでしょう。イエスは人類の罪を負って十字架につけられたのですから。
それで、ミサの受難の朗読で会衆が「十字架につけろ!」と言うのは「わたしたちにもイエスの十字架に対する責任がある」という宣言だといえるでしょう。わたしも受難の朗読ではえらそうにイエスの言葉を読んでいますが、ほんとうはみんなと一緒に「十字架につけろ!」と叫ぶべきなのだと思っています。
枝を振ってエルサレム入城を歓迎した群衆が、数日後には「十字架につけろ!」と叫ぶという人間の心の弱さはわたしたちにもあります。そのように、受難の朗読は、わたしたちみんながイエスの十字架にかかわっている、それだからこそ復活にもあずかっているということを体験する機会です。そのような体験を通して迎える聖週間は、新たな復活の喜びを与えてくれることでしょう。
(柳本神父)
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