1月26日 年間第3主日 ルカ1章1~4節、4章14~21節 今日、耳にしたとき実現した
2019年、教皇フランシスコは年間第三主日を神のみことばの主日と定められました。A年はマタイ、B年はマルコ、そしてC年の今年はルカの福音から、いずれもイエスの宣教開始の場面が読まれます。イエスが神のみことばを公に告げられた箇所であり、まさに神のみことばの主日にふさわしい福音であるといえるでしょう。
マタイとマルコはいずれもよく似ており、天の国(神の国)は近づいた、回心して福音を信じるように告げられるという内容です。ルカは異なる内容で、ナザレの会堂でイザヤの預言を朗読し、教え始められるという内容となっています。しかし、その三つの福音から、イエスが告げられた神の福音とは、イザヤの預言に表わされている内容だということがわかります。
イエスの会堂での振る舞いを見ると、なんだかユダヤ教の指導者のように偉そうにしているような印象を受けます。たしかに「諸会堂で教え」とあるので人々の前で説教するラビ(先生)の役割をしていたようでもあります。しかし、ナザレのような田舎では字の読める人も少なかったと思われるので、安息日の集会に旧約聖書の朗読を担当するメンバーの一員だったのではないでしょうか。
けれども、今日の場面では、イエスは会堂に集まっている人々に、はっきりとご自分の使命を宣言されます。そこで読まれたイザヤ書の61章1~2節は預言者(イザヤ)が自分の使命を語るところです。「油を注がれた者」は「メシア」であり、もともとは預言者、王、祭司のように神から特別な役割を与えられた人のことです。イエスの時代にはそれが来るべき救い主を表す称号となっていました。イエスはご自分がそうだとは言われませんが、メシア=キリストとしての使命を自覚しておられたのでしょう。偉そう、というよりも権威をもって教えられたのです。たまたま手渡された巻物が、もっともふさわしいものであったということにも聖霊の働きがあったといえるかもしれません。
預言者の使命が貧しい人に福音を告げ知らせることであったことは、イエスの宣教が貧しい人、身体の不自由な人、しいたげられている人に向けて行われたことを表しています。これこそが神の国の福音であったということが、このあとのイエスの宣教生活、そして死と復活を通して明らかにされていくのです。
今日の福音で大切なのは、イエスが「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されていることです。マタイとマルコでは「天の国(神の国)は近づいた」と言われていますが、近づいたということは完成に向かってすでに始まっているということです。わたしたちが神のみことばである福音を耳にしたとき、それはもう始まっています。そのためにわたしたちも協力していかねばなりません。イエスとともに歩むということは、わたしたちも油注がれた者としての使命を与えられているのです。
(柳本神父)
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