2月16日 年間第6主日 ルカ6章20~26節 貧しい人が笑えるように
イエスは洗礼を受けて宣教生活を始められ、先週の福音ではシモンとヤコブ、そしてヨハネを弟子に招かれましたが、その後いくつかの奇跡を行いながら教えを伝えていかれます。今日の福音では十二人の弟子を選ばれたのちに弟子たちと大勢の民衆を前に教えられます。イエスの宣教がいよいよ多くの人々に向けて語られ始めたということです。
マタイの福音では山の上で教えられるので「山上の説教」あるいは「山上の垂訓」と呼ばれていますが、ルカでは山を下りて平らなところで教えられます。それで「平地の説教」とも言われます。わたしはマタイが若草山山上、ルカが春日野のような場所なのかなと勝手に想像しています。イスラエルには鹿もいるようですし。もともとは同じ出来事だと考えられますが、どちらが史実なのかというよりも、マタイはイエスの教えが天からのみことばであるというイメージ、ルカはそのみことばが地上の人々に伝わったというイメージが強調されているのではないでしょうか。
今日の福音は幸いと不幸についての箇所ですが、マタイの箇所とともに「真福八端」と呼ばれています。ほんとうの幸せはここにあるということですね。その最初が「貧しい人々は幸いである」です。これは年間第3主日の「貧しい人に福音を告げ知らせる」という箇所に対応しています。「貧しい人」は経済的に貧しい人に限らず、体の不自由な人、苦しみを受けている人など、救いを求めている人々全体を表していると考えられます。そして、以下、具体的に苦しんでいる人々が列挙されています。それぞれに対応する報いが述べられますが、最初の「神の国はあなたがたのものである」という言葉が全体の結論であるといってもいいでしょう。そう、これらの人々は神の国に招かれている人々なのです。
一方、このルカの真福八端は、それに対応する不幸についても述べられています。言うなれば「偽福八端」というところでしょうか。この世での満足はむなしい、という戒めであるというよりも、苦しむ人々を無視して自分、あるいは自分たちの幸せを求める人々は神の国から遠いということが語られているのでしょう。
イエスが宣教のはじめに語ったこの言葉は、人々に向けてのイエスの「所信表明演説」にあたるものです。「貧しい人々に福音を告げ知らせるために来た」というイエスの使命はこのとき具体的に実現したのでした。
イエスの伝えた神の国は、体の不自由な人、病気の人、罪に苦しむ人、圧迫されている人、経済的に貧しい人などの「貧しい人」のためのものでした。それらの人々が満たされ、笑うことができるところが神の国です。残念ながらイエスが神の国の福音を伝えてから二千年、社会の中には笑うことができない人々がいっぱいおられます。わたしたちはイエスに従う者として、神の国が広がっていくよう祈るとともに、身近なことから実践していく必要があります。教会はその拠点なのです。
(柳本神父)
PDFはこちら→2月16日説教 年間第6主日