3月2日 年間第8主日 ルカ6章39~45節 師であるイエスが働いてくださる
今日の福音も先週に続く箇所です。マタイの「山上の説教」もルカの「平地の説教」も、さまざまな機会にイエスが語られた教えがまとめられたものだと言われています。とくに今日の箇所の内容は、四つの教えが列記されていると考えられます。それぞれの教えの部分について考えてみましょう。
第一の教えは「盲人の道案内のたとえ」です。目の不自由な人を揶揄しているようにも思えますが、ファリサイ派の人々や律法学者のような人々が、神の思いを理解せずに指導し、律法を守れない人々を見下していたことを表していると考えられます。道を知らないのに「大丈夫だ、俺について来い!」と先導して二人とも迷ってしまうこともありますね。昔、植木等が「♪金のない奴ぁ俺んとこに来い!俺もないけど心配するな」と歌っていたのを思い出します。ということはファリサイ派の人たちは無責任男ですか。彼らの立場からすれば、律法の細かい規定にこだわらないイエスこそが無責任男だと思うでしょうが。この教えは弟子たちに向けられたものだと考えられるので、自分の思いではなく、神の思いを大切にしながら人々と歩みなさいという意味ではないでしょうか。
第二は短い部分で「弟子は修業を積めば師のようになれる」です。修行というと千日回峰行や冬の滝行のようなきびしいことを連想するかもしれませんが、迫害を恐れずにイエスに従うということによって、ともにおられるイエスが働いてくださるということだと考えられます。偉くなれるというよりも同じ働きを与えられるということですね。
第三は「おがくずと丸太のたとえ」です。よく「自分の欠点には気づかないが、人の欠点は目につくものだ」と言われますが、むしろ、イエスは「人を裁いてはならない」ということを言いたかったのではないでしょうか。「あなたの目のおがくずを取らせてください」と言うとき、その人は「わたしは正しい」と考えています。自分と相手を比べて自分のほうが勝っていると思っているのです。以前にも書いた、「お前が悪い、と指さす三本は自分を向いている」というあるお寺の掲示板の言葉は、今日のたとえと共通する教えだといえるでしょう。
最後の部分は「木と実のたとえ」です。「よい木はよい実を結ぶ」と言われると「よい木はよい人間」「悪い木は悪い人間」と考えてしまいがちですが、そう考えると人の値打ちを決めることになり、前の教えと合わなくなります。最後に「心からあふれ出ることを語る」と言われているので、木は心、実は言葉や行いということになります。
これらの四つの教えをつなぎ合わせると、自分の思いではなく神の思いを求めながら、謙遜の心をもって人々とともに歩むとき、師であるイエスが必ずともにいて働いてくださる、ということなのではないでしょうか。これはイエスの弟子だけでなくわたしたちにも与えられた使命として受け止めることができるでしょう。
(柳本神父)
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