4月20日 復活の主日

4月20日 復活の主日 ヨハネ20章1~9節  墓に入って、見て、信じた

 みなさん、主の復活おめでとうございます。今年も世界中でそして奈良ブロックで洗礼を受けられる方々とともに復活祭をお祝いすることができるのはうれしいことです。復活祭の福音は徹夜祭の朗読と日中のミサの朗読があります。ここでは日中の朗読を中心に考えていきましょう。

 復活徹夜祭の福音は、A年がマタイ、B年がマルコ、C年がルカの福音ですが、日中のミサは毎年ヨハネです。四つに共通するのは、マグダラのマリア一人、あるいはほかの女性と一緒に墓に行ってみるとイエスの遺体がなかったという内容です。つまり、復活祭の福音のテーマは「空の墓」だということです。
 日中のミサでは、マグダラのマリアの報告を受けたペトロともう一人の弟子、ヨハネが競争するように走って墓に向かいます。彼らの気持ちはどのようなものだったのでしょうか。とくにペトロは自分が関係を否定してしまった負い目があります。どこまでも一緒に行くと言ったのに「あなたは弟子ではないか」と言われたときに恐ろしくなって三度も否定してしまった自分。せめて主の遺体がないという一大事には最初に駆け付けたいと思ったのでしょうか。また、ヨハネは自分こそがイエスに最も愛されていたという自負があったのかしれません。競争の結果はヨハネの勝ちでした。けれども墓に入ったのはペトロが先でした。この勝負、引き分けというところですね。
 ここでヨハネの福音だけに記されているのは、ヨハネが「見て、信じた」ということです。ヨハネは何を信じたのでしょうか。「イエスの復活」だとしたら、後に続く「まだ理解していなかった」という記述と矛盾します。そこにイエスの遺体がなかったということを確認した、ということだったのでしょうか。
 わたしは復活の主日にこの福音を読むたびに、朝の陽ざしを思い浮かべます。マグダラのマリアが言っているように、遺体がどこかへ運び去られたのだとしたら大変です。ユダヤの指導者やローマ兵の仕業だとしたら自分たちにも迫害が及ぶかもしれません。けれども、二人の弟子は、「何かここに神の力のしるしがある」ということを感じたのではないでしょうか。失望の夜が過ぎ、朝の光の中に新しい日が始まっている―復活したイエスとまだ出会っていない彼らの心にも、希望の光が射し始めていたのです。 

 「見て、信じた」という言葉は来週の福音のイエスの言葉につながります。わたしたちはイエスの復活を知っていますし、信じています(あるいは信じたいと思っています)。けれども、聖週間の典礼を通して、わたしたちもマグダラのマリアや女性たち、弟子たちが体験したことを再び体験します。このあと、彼ら・彼女らは復活したイエスと出会い、希望は確信へと変わっていきます。わたしたちのこれからの生活においても、復活のイエスとの新たな出会いが用意されていることを期待しましょう。

(柳本神父)

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