4月27日 復活節第2主日 ヨハネ20章19~31節 ゆるしの福音を告げ知らせる
復活の主日から第二主日までの八日間は「復活の八日間」です。復活の喜びを一週間続けてお祝いするということでもありますが、復活祭に洗礼を受けて白い衣を受けた人々が第二主日まで身に着けるという伝統から、「白衣の主日」とも言われます。どう読むかは二通りありますが、「はくい」はお医者さんや理科の先生みたいですし、「びゃくえ」は観音さんみたいで、日本語に直すとしっくりこないようですね。
今日の福音は毎年同じ箇所です。イエスが復活して弟子たちに現れた二つの出来事が朗読されます。ヨハネの福音書では、イエスは復活してまず墓でマグダラのマリアに現れるのですが、それに続く出来事として記されています。両方とも、イエスは鍵をかけている家の中に現れました。どこからどうして入って来られたのかというよりも、復活されたイエスは時と場所を超越した存在であったということなのでしょう。
そして、弟子たちに聖霊を与えて罪のゆるしについて告げられます。ヨハネでは、復活のすぐ後に聖霊が与えられているので使徒言行録の五旬祭の出来事と矛盾するように思いますが、弟子たちの派遣には聖霊の助けが不可欠であることを表しているのでしょう。ここでイエスは宣教への派遣を「罪の赦し」と表現されています。「あなたがたが赦せば赦される」というと、罪の赦しの権限が与えられているように思ってしまいますが、むしろ、「あなたがたが人を赦すことによって、神の赦しが伝えられる」という意味でしょう。実は、イエスが復活して現れたことは、弟子たちに対するイエスの赦しのしるしでもありました。三度否定したペトロは、「わたしにも現れてくださった」と安心したのではないでしょうか。イエスから赦されたことを体験した弟子たちは、神の赦しを宣べ伝えることによってその愛に応えたのです。
さて、後半の主人公はトマスです。彼は毎年復活第二主日にイエスに叱られる福音を読まれてちょっと気の毒ですね。それどころか、自分の祝日にも読まれています。でもほんとうに彼は責められていたのでしょうか。「わたしは決して信じない」というトマスの言葉には、自分がその場にいなかったことのくやしさが表れているようです。「信じない」というより「信じたい」という思いが強かったのではないでしょうか。そして、トマスだけでなく、ほかの弟子たちも「見たから信じた」のです。
「見ないのに信じる人」とはだれでしょうか。イエスが天に帰って生身の姿を見られなくなってからの信者のことでしょうか。たしかにわたしたちは人間イエスの姿は見ていません。けれども、みことばを聞き、聖霊のいぶきを感じ、ご聖体のイエスを見ています。わたしたちもその意味では「見て信じる」者ですね。イエスの「見ないのに信じる者は幸い」という言葉は、神の赦しの福音を知らずに救いを待っている多くの人々が幸せになれるように、それを告げ知らせる使命を表しているのではないでしょうか。
(柳本神父)
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