5月18日 復活節第5主日

5月18日 復活節第5主日 ヨハネ13章31~35節  イエスの与える新しい掟

 今週はヨハネの福音から、イエスの言葉です。ヨハネの福音はイエスの説教が中心ですが、この箇所は最後の晩さんの際に語られた言葉とされています。復活節なのに最後の晩さんの場面が読まれるのは時間的に逆行しているように思いますが、イエスの遺言ともいえるこのみことばを、復活を体験した弟子たちの立場で味わうことによって、より身近に感じられるのではないでしょうか。

 これが最後の晩さんのときの出来事であることは、ユダが出て行ったことからもわかります。彼はイエスを売るために出ていきました。吉田戦車さんの漫画に、保育園の聖劇のタイトルが「ユダの裏切り」で保護者さんたちが引く、というのがありましたが、これがイエスの受難の始まりであったわけです。しかし、イエスは「人の子(イエス)は栄光を受けた、神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われます。なぜユダが出て行ったあとにそう言われたのでしょうか。
 「栄光」というと、晴れやかで名誉な状態を思い起こしますが、このあとイエスは最もみじめな姿を表されるのです。しかし、ここでの「栄光」は「本来の姿が輝く」という意味で使われているそうです。ということは、イエスが十字架につけられる姿が救い主の本来の姿であるということになります。つまり、すべての人を救うために犠牲となる愛の姿こそが栄光の姿であるということです。
 そしてイエスは「わたしがあなたがたを愛したように、たがいに愛し合いなさい」という掟を与えられます。掟というと義務に縛られるような印象がありますが、イスラエルの民にとって掟、つまり律法は、神に対する最大の信仰と忠実を表すためのものでした。ユダヤ人であった弟子たちに、イエスは旧約の掟に代わるものとしてこれを守りなさい、と教えられたのでしょう。
 イエスのこの掟は、この前の箇所にある「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、互いに足を洗い合わなければならない」という言葉と重なります。イエスは弟子の足を洗うことによって、へりくだって愛の奉仕を行う姿を示されました。それはまた、すべての人の罪をあがなうために十字架上で命をささげるという究極の愛の姿へとつながります。そこに神の栄光が表れるということなのです。

 そのような計り知れないイエスの愛に、わたしたちはどのように応えるべきでしょうか。わたしたちの罪はたびたび神に対する借金にたとえられます。イエスは受難によってわたしたちすべての人類の借金を肩代わりしてくださいました。わたしたちも隣人を愛することによって少しずつイエスに借りを返すことができます。なぜなら、イエスが愛しておられる隣人を愛することがイエスの望みであるからです。そしてすべての借金を返し終わったときに世の終わり、つまり神の国が来るのです。

(柳本神父)

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