9月28日 年間第26主日

9月28日 年間第26主日 ルカ16章19~31節 塀の外から語りかける声

  先週の福音のあと、イエスをあざ笑うファリサイ派の人々に律法と福音について説明されます。今日の福音はそれに続く箇所で、金持ちとラザロのたとえです。文脈からいうとファリサイ派の人々に語られたということになりますが、弟子たち、そしてわたしたちに向けての教えであるともいえるでしょう。

 今日のたとえ話には貧しいラザロと金持ちが出てきます。この前の箇所には「金に執着するファリサイ派の人々」と書かれているので、彼らはたとえ話の金持ちの立場なのでしょう。ファリサイ派の人々みんなが金に執着していたとは限らないですが、彼らは人を指導する立場であり、社会的にも恵まれていたことは間違いないでしょう。一方、ラザロは貧しいだけでなく、病気であったようです。社会福祉が未発達だった時代、彼らは社会的に見捨てられていました。貧しいのは自己責任であり、神から祝福されていないからだと思われていたようです。病気も罪の報いだと考えられていました。恵まれていたファリサイ派のような人々は、それを言い訳にして放置していたのかもしれません。
 ところがあの世では立場が大逆転します。ここでは死後の世界のありさまが描かれていますが、イエスは当時の死後の世界のイメージを通して語られたたとえ話として考えるべきです。宴席は神の国の象徴ですね。アブラハムはもちろんイスラエルの祖先なので、ファリサイ派の人々にとっては特別な存在です。ここでは「金や地位に執着していたらアブラハムのところに行けないよ」と戒められておられるようです。
 たとえ話の後半では、金持ちが自分の兄弟が死後苦しまないようにアブラハムに懇願します。昔の聖書の注釈には「地獄ではこのように天国に向かって語りかけることはできないが…」と書かれていましたが、いやいや、たとえ話ですから。
 わたしはこの金持ちの苦しみは、真理を悟ったときの後悔を表していると思います。自分はアブラハムと一緒にいると思っていたがそうではなかった、ラザロのほうにおられた、ということに気づいたのです。そして自分の兄弟にも真理を伝えるよう懇願するのですが、それはすでに旧約時代に伝えられていたのです。モーセは旧約聖書の最初の五つ、モーセ五書を書いたとされている人です。預言者はイザヤ、エレミヤなど預言書を書いたとされる人です。つまり、旧約聖書に「貧しい人に手を差しのべなさい」と書かれているではないか、あなたがたはそれをどう読んでいるか、とファリサイ派の人々や弟子たちに問いかけられているようです。

 最後に、「たとえ死者の中から生き返る者があっても」と言われますが、これをイエスご自身のことと考えることもできます。イエスもこの世で見捨てられ、罪を負わされて十字架につけられました。イエスは塀の外に立っていらっしゃいます。わたしたちはそこから語りかけられるイエスの声に耳を傾けましょう。

(柳本神父)

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