10月5日 年間第27主日

10月5日 年間第27主日 ルカ17章5~10節 信仰は量ることができるものなのか

 新共同訳福音書では、17章の1節から10節までの箇所に「赦し、信仰、奉仕」というタイトルがついています。これらは一続きの箇所というよりも、断片的に伝えられていた弟子たちに対するイエスの教えがまとめられたものだと言われています。4節までの「赦し」についての教えのあと、今日の箇所は「信仰と奉仕」について述べられているところです。

 弟子たちはどのような思いで「信仰を増してください」と言ったのでしょうか。信仰が増えるのはいいことのように思えますね。しかし、「増す」というからには、何に比べて増すのか、ということが問題になってきます。物価高の世の中ですが、商品の広告でも「今だけ増量」とか「他社製品よりこれだけ多い」などと書かれているものを見かけます。これは従来品や通常商品に比べてということですね。ということは信仰もはかりで量れるものなのでしょうか。
 イエスが弟子たちをいさめられたのは、ファリサイ派の人々と同じように、他人とくらべて自分は信仰が深いということを誇りたいという思いを感じられたからではないかと思います。また、信仰が増えれば増えるほどご利益があると思っていたのかもしれません。
 そこでイエスは「からし種一粒ほどの信仰があれば木を海に植え替えることができる」と言われます。からし種は最も小さいものを表します。弟子たちにとってみれば、自分の信仰はからし種よりもっと大きい、せめて柿の種(あられではないほう)くらいはあると思っていたはずです。ところが木に命令してもうんともすんとも動きません。というか、そんなことのできる人はこの世にはいないでしょう。ということは、すべての人はからし種一粒ほどの信仰さえも持っていないということになります。イエスは信仰を大きさや量ではかること自体が無意味であると教えられたのではないでしょうか。
 後半は主人としもべのたとえ話です。しもべは役目を果たしたとはいえ、主人はちょっと冷たいように思います。せめて「ごくろうさま」「ありがとう」の一言くらいは言ってもいいように思いますが、これを信仰について考えてみたらどうでしょう。自分の信仰を誇ったとしても、それはその人が神の愛に気づいたからであり、自分の手柄ではありません。むしろ、神と人の前に謙虚になるはずです。また、神から人より多くのごほうびや報いをいただくためではありません。

 そのように、信仰とは自分の努力で成果を上げることではなく、神の呼びかけに耳を傾け、神の働きに身をゆだねることだといえるでしょう。わたしたちが一番に願うことは、主の祈りにもあるように神の思いがこの世に実現することです。世の中の現状を考えるとそれは困難なことのように思えるかもしれませんが、神は必ず実現してくださるということに信頼して神の国のために働くことが信仰の証しです。

(柳本神父)

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