10月19日 年間第29主日 ルカ18章1~8節 悪い裁判官でさえ聞いてくれる
先週の福音のあと、イエスが神の国について語られる箇所があります。滅びのイメージが強いですが、怖がらせて悔い改めさせるのが目的ではなく、「神の国はあなたがたの間にある」と言われているように、この世における神の国の実現を希望するように諭されているのでしょう。今日の福音のたとえもそのような観点から見ることができます。
イエスは不正な裁判官のたとえを語られます。夫のいない女性は現在のように仕事もなく、遺産だけが頼りでした。そのなけなしの財産が奪われようとするので大変です。ところが担当の裁判官は「神を恐れず、人を人とも思わない」ひどい人でした(自分でも言っているのがちょっとおかしいですね)。おそらくわいろをもらったり、お金持ちの裁判を優先的にしたりしていたのでしょう。そこでそのやもめは何度もうるさく必死に頼みます。裁判官は正義感や責任感からではなく、「うるさいから」裁判を開くことにしました。このたとえは年間第11主日のたとえと似ています。そこでも夜中にパンを求められた友人は、「うるさいから」パンを渡します。意味することは同じだといえるでしょう。
先日、わたしが刑務所の研修会で金沢に行ったとき、一日目の最後に入ったお風呂屋さんにお風呂セットを忘れてしまいました。次の日、何度か電話をしますがつながりません。そこで開店30分前に行ったら常連のおばちゃんが数名集まって来ました。そこで事情を話してしばらくしたら、お風呂屋のおばちゃんが掃除しているのが見えたので、みなさんでドアをたたいて「あけたげて~!」と叫んでくださいました。それでお風呂屋さんは面倒くさそうに「営業時間内に来てくださいね!」と言いながらも開けてくれたので無事ゲットできました。そう、どの話も「しつこく頼む」ことが大事なのです。
イエスのたとえでは、いい人でなくてもしつこく頼めば応えてくれる、それならば神は応えてくださらないはずがあろうかと言われます。神が不正な裁判官や面倒くさがる友人にたとえられていることに違和感を覚えるかもしれませんが、ましてやわたしたちを愛してくださっている神ならばどうだろうか、と教えられているのです。ではわたしたちは神に何を頼むのでしょうか。ここで今日のたとえが意味を持ちます。やもめが願うのは「裁き」です。裁きというと恐ろしいイメージがありますが、彼女は自分が正しいことを証明してほしいのです。神の裁きも、何が正しいかがはっきりとされる出来事です。世の終わり、つまり神の国の完成は、神の正義が実現する世界です。そこでは苦しみを受けている人々の義が認められ、すべての人がしあわせにくらすことのできる世界が実現します。
もしわたしたちが先々週の金持ちのように人の苦しみを見ないで自分たちの幸せだけを考えているとすれば、世の終わりは来てほしくないでしょう。けれどもラザロや今日のやもめのように、この世で苦しみを受けている人々ならば、切実に神の国を求めるでしょう。わたしたちはどちらの立場につくのでしょうか。
(柳本神父)
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