苦しみを乗り越え、神の国へ                      奈良ブロック担当司祭 柳本昭

聖母の被昇天の祭日、おめでとうございます。今年は新型コロナウイルス感染拡大に苦しむ世界の状況の中でお祝いすることになりました。みなさんにとっても、わたしにとっても初めての体験です。聖母の被昇天の出来事は、今のわたしたちに何を告げるのでしょうか。

被昇天の祭日の福音は、マリアがエリザベトを訪問した際に、神のわざを讃えて語ったとされる言葉です。「マリアの賛歌」として「教会の祈り」の晩の祈りに毎日唱えられます。この賛歌の前半は、「神がわたし(マリア)に偉大なことをなさった」という内容です。もちろんこれは、マリアが救い主を生む神の母となられた、ということです。このことは、聖母マリアが「幸いな者」であり、すばらしい方であることを示していますが、ただマリアご自身だけに留まるものではありません。
教会は、聖母マリアを讃えるとともに、わたしたち人間を代表する方であると位置づけています。マリアがイエスの母となられたおかげでこの世に救い主が来てくださることができたのです。その意味で、わたしたちすべての人間も「幸いな者」であります。主が「身分の低い、はしため」に目を留められたということは、マリアだけでなく、神から見れば小さな存在である人類に目を留めてくださっていることも象徴しています。
賛歌の後半は、権力者や金持ちを追い返し、身分の低い人や、飢えた人々を大切にされるという内容です。これはまさにイエスの伝えた神の国の福音を表しています。イエスの宣教の始めに朗読されたイザヤの預言、山上の説教における幸いと不幸、そして何よりイエスのもとに貧しい人々や苦しみを受けている人々が大勢集まってきたことがそのしるしです。イエスに従う者が待ち望む神の国の正義がここに示されているのです。

新型コロナの時代はわたしたちがあたりまえだと思っていた日常があたりまえでなくなった時代であるといえるでしょう。しかし、「あたりまえ」とは何でしょうか。感染が広がる前から病気や孤独に苦しむ人々はいらっしゃいました。貧しい人やしいたげられている人のことを忘れていたかもしれません。わたしは心痛から体調を崩したときには、元気に動きおいしく食べられることのありがたさを痛感しました。
感染の拡大自体は不幸なことかもしれません。しかし、いま一度マリアの賛歌を思い起こすとき、これから向かうべき神の国の光がわたしたちを照らし、導きます。ミサが今までのようにできなくなったことは悲しむべきことですが、教会の使命を思い起こし、試練を乗り越えて新たな教会の姿を作っていくための機会であるともいえるでしょう。
マリアが肉体とともに天に上げられた出来事は、世の終わりにわたしたちが神の国に集う「からだの復活」の先取りです。聖母の被昇天を祝うことは、神が必ずこの世を神の国に導いてくださるという希望を新たにすることです。