10月17日 年間第28主日 マルコ10章35~45節  いちばん上になりたい人は…

今日の福音は先週のやりとりのあと、イエスが三度目の受難予告をされたあとに記されている内容です。ここでイエスが述べられる言葉はその受難と深く結ばれているといえるでしょう。今週の箇所も、二人の弟子たちの願ったことを受けてイエスがさとされるという、これまでと同じ構成になっています。

二人の弟子が、イエスが栄光を受けるときに一人を右に、一人を左に、と願います。イエスはメシアであり、メシアはイスラエルの王となる方ですから、「栄光を受ける」とはそのイメージで言っているのだと思われます。それでイエスが王となるときには、その次に偉い右大臣と左大臣のような立場を願ったということでしょう。いずれにしても、二人はほかの弟子たちを差し置いて抜け駆けをしようとしたわけです。
この内容は、9月19日の福音で弟子たちが議論していた「だれがいちばんえらいか」という考え方と共通しています。そのときは「今の自分たちでえらいのはだれか」という議論でしたが、今日は「わたしたちだけがえらくなれるようにしてください」という希望なので少し違いますが、「人よりもえらくなりたい」という意味においても共通しています。ほかの弟子たちはそれを聞いて腹を立てます。おそらく彼らも同じことを望んでいたのでしょう。

それに対してイエスは「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えられます。これも、9月19日の福音と共通する内容です。さらにいうならば、10月3日の「神の国はこのような者(子ども)たちのものである」という教えともつながります。
このように、9月から10月にかけての福音朗読の箇所は、共通するテーマで貫かれているといえます。それは「この世の価値観」に対してイエスが示される「神の国の価値観」の対比であり、今日の福音もそれに従っているということです。そしてこれらは、イエスが受難の予告をされてエルサレムへ向かう途上の出来事でした。弟子たちの期待はイエスがエルサレムに入って王となることでしたが、イエスにとっては権力者に排斥されて殺されるという受難への道のりでした。まさに、この世の権力によって苦しみを負わされる者、すなわち神の国の中心にいる者としてエルサレムへ向かわれたということです。皆に仕える者、僕となる者の姿がここに示されています。

ちょうど、この文章を書いているときに組閣のニュースがありました。だれだれが大臣に任命された、ということでしたが、派閥の駆け引きや権力争いがあったという指摘もあります。「国民に仕える者」として、弱い立場の人や貧しい人が犠牲にならない社会を作るために、働いていただくことを強く希望します。           (柳本神父)