10月24日 年間第30主日 マルコ10章46~52節  見えるようになり、イエスに従った

今日の福音は先週に続く箇所です。イエスがエルサレムへ向かう旅の途中、エリコでの出来事です。エリコはヨルダン川西岸の町でエルサレムへは30キロほど、イエスの受難への旅も終わりに近づいていることがわかります。そこで、バルティマイという盲人がいやされる奇跡について記されています。
この出来事のポイントは三つです。
①    「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」というバルティマイの叫び。
②    イエスの言葉によって目が見えるようになる。
③    バルティマイはイエスに従う。

第一のポイントですが、「ダビデの子」とはイスラエルの王になる人という意味があります。ローマに支配されていた当時、真のイスラエルの王はダビデ王家の血筋から出る、という期待がありました。そしてその王はローマの支配を退け、イスラエル王国を再建するメシアだと考えられていました。イエスがメシアではないか、という思いが人々の間で高まっていたとき、バルティマイもそのうわさを聞いてそのように叫んだのでしょう。
先週の福音では、王位に就くことを期待して、ヨハネとヤコブがイエスに地位を願う内容でした。それに対して、バルティマイは目が見えることだけを望みます。彼は、イエスがメシアとして自分の気持ちを理解し、なんとかしてくれると信じていたのでしょう。
第二のポイントです。バルティマイはいやされ、目が見えるようになりました。ところが、イエスの言葉はいやしのあとに言われるべきもののように思います。さらに、「あなたをいやした」ではなく「救った」と言われます。これは何を意味するのでしょうか。
バルティマイが望んでいたのは視力の回復でしたが、そこには神の力に頼るしかないという強い思いがありました。イエスはそれを「信仰」と言われます。わたしたちも、この世の富や権力ではなく、神の助けに頼るとき、そこに信仰があります。そして、神の力に出会うという救いを体験するのではないでしょうか。
第三のポイントです。先々週の金持ちの男性は、この世の富を捨てきれず、イエスに従うことをあきらめましたが、「行きなさい」と言われたにもかかわらず、バルティマイはイエスに従っていきました。彼は目が見えるようになっても、貧しいことには変わりなく、帰る家もなかったのでしょう。イエスは「自分の行くべきところに行きなさい」という意味で言われたのかもしれません。彼にとって、行くべきところはイエスの下だったのです。

先月12日の福音でイエスが受難の予告をされてから一貫している「この世の価値観」と「神の国の価値観」のどちらを選ぶか、という福音のテーマは今日の箇所にもはっきりと表れています。三つのポイントに表れているバルティマイの態度は、イエスと出会ったときにどうすればよいかをわたしたちに教えてくれています。      (柳本神父)