10月4日・年間第27主日 マタイ21章33~43節  神の国は見捨てられたところから始まる

奈良ブロックでも徐々に公開ミサが再開されつつあります。喜ばしいことではありますが、感染が終息したわけではありません。感染拡大防止に努めながら、新しい教会生活のあり方を考えていきましょう。

今日の箇所は先週に続くところで、ぶどう園のたとえ話であることは同じですが、今日のたとえ話は一段と厳しい内容となっています。
イエスがエルサレムに入られたことで宗教的指導者たちはイエスと直接向き合うことになりました。彼らは敵意をむき出しにし、イエスもはっきりと彼らを非難されます。今日の福音もそのような状況の中で語られています。
イエスのたとえでいつもそうであるように、主人は神さまです。しもべは主人=神さまから遣わされた者なので預言者を表します。イスラエルの民は預言者たちを殺すことまではしなかったかもしれませんが、彼らの声に耳を傾けようとしませんでした。直前の箇所である先週のたとえ話や、その前に洗礼者ヨハネが出てくるので、ヨハネのことが示唆されているのかもしれません。そして最後に殺される主人の息子はもちろん神の子であるイエスを表しています。たしかに指導者たちは神のひとり子を十字架につけて殺してしまったのです。

このたとえ話の主人は、しもべが殺されてしまったのに、「息子なら敬ってくれるだろう」と考えて自分の息子を送ります。ふつうはそんな恐ろしい人たちのところに大切な息子を送ることはしないでしょう。けれども、神である主人はまだぶどう園の人々を信頼しようとします。これは、イスラエルだけのことではなく、神さまとわたしたちの関係を表しているといえるでしょう。
神はわたしたちが何度も期待を裏切っても、ひとり子をわたしたちのもとに遣わしてくださる方です。イスラエルの指導者たちはイエスを十字架につけてしまいましたが、わたしたちもイエスを裏切ってしまいます。けれども、先週のたとえ話の兄のように、神は考え直して従うことを待っていてくださるのです。

ぶどう園の農夫たちは、「彼の相続財産を我々のものにしよう」と話し合います。「相続財産」は、この世で人類にゆだねられている世界であるといえるかもしれません。ほんとうは神の思いに従って使わなければならないのに、自分たちの利益のために使ってしまっています。
新型コロナの感染拡大は、人類が作った社会がいかに危ういものであるかを考えさせられる機会となりました。利益を求めるわたしたちが見失っていたもの、「家を建てる者の捨てた石」を見直すとき、そこから神の国が始まるのです。         (柳本神父)