11月29日・待降節第一主日 マルコ13章33~37節 信頼と希望のうちに主を待つ

今日から待降節が始まります。主日の聖書朗読もB年となり、マルコの福音書が主に朗読されます。待降節は降誕を待つ、という意味ですが、救い主の誕生を準備するとともに、現代のわたしたちにとっては来るべき主を待つ、つまり神の国の完成を準備するという意味もあります。それで年間の終わりと待降節の始めには世の終わりに関する箇所が読まれるのです。
今日の福音のテーマも11月8日と同じ「目を覚ましていなさい」というテーマです。「旅から帰って来る主人」が来るべきキリストを表しているというのは、11月15日の福音と共通しています。

主人が帰って来たときに仕事をしているのを見られる、ということが言われていますが、働いたりさぼったりしている人が、たまたま働いているところを見られるとラッキーで、さぼっているところに主人が来るとアンラッキーだという考え方がありますが、それはイエスの本意ではないでしょう。それよりも、いつもちゃんとしているほうが大切ですね。
少年聖アロイジオ(聖ドミニコ・サヴィオという説もあり)にこんな話があります。友人と遊んでいたときに尋ねられました。「このあと世の終わりが来るとしたらどうする?」ある少年は「すぐにゆるしの秘跡を受けます」と答え、別の少年は「聖堂に行ってお祈りします」と答えました。ところがアロイジオは「このまま遊んでいます」と答えたそうです。これは、彼が常に正しく生きていることを表すエピソードとして語られますが、わたしはそれよりも、イエスに対する信頼があったんじゃないかな、と思っています。聖人とはいえ、ふつうの少年ですから、いたずらをしたり人を困らせたりすることもあったでしょう。けれども、先週も書いたように、世の終わりとはイエスと出会うことであり、この世が神の国となるということです。「イエスさまだったら、遊んで待っていても喜んでくれるだろう」という信頼です。

神さまはわたしたちのすべてをご存知です。うまく立ち回ろうとしても、いつも人と自分を比べて安心したり不安になったりしていても、わたしたちが何を考え、何に喜んだり悲しんだりして生きているか、ということもすべてご存じなのです。ですから、神さまの顔色をうかがう必要はありません。すべてをご存知の神に信頼し、ありのままの自分をゆだねることが大切です。
新型コロナの感染が拡大する中、今年のクリスマスは例年のように多くの人々を招くことも、パーティーを開くこともできません。終息が見えない不安の中、いつもと違う気持ちでクリスマスを迎える準備をしていらっしゃることでしょう。しかし、わたしたちにできることは、必ず神さまはわたしたちに神の国を与えてくださるという信頼と希望を持ち続けることです。                           (柳本神父)