1月17日・年間第2主日 ヨハネ1章35~42節  信仰のバトン

先週の「主の洗礼」の週から年間が始まりました。年間というと、「何もお祝いのないふつうの日かあ」と思う方もいらっしゃるでしょうが、二回ある最初の年間はイエスの宣教生活を記念する大事なときです。イエスはヨハネから洗礼を受けて宣教生活に入られたので、「主の洗礼」が年間第一主日でもあります。

今日の福音を読んで、「アンデレとシモン(ペトロ)は漁をしていたときにイエスに招かれたのではないか」と思われるかもしれません。たしかに来週に読まれるマルコの福音や、マタイの福音ではそのように書かれています。
しかし、ヨハネの福音だけは洗礼者ヨハネの弟子アンデレがイエスについていき、兄弟シモンに紹介するという内容になっています。どちらが史実に近いかはわかりませんが、ヨハネの福音書はクリスマスの福音にもあるように、イエスの存在を象徴的に描いています。1章6節でも、洗礼者ヨハネがイエスを証しする者であるとされているので、イエスの弟子についても、ヨハネが紹介するという役割が強調されているのかもしれません。

洗礼者ヨハネ→イエス→アンデレ→シモン・ペトロというつながりは、イエスとわたしたちの関係をよく表しています。実は、わたしがこうして教会にいるのも、私の両親が幼児洗礼を授けさせてくれたからですが、両親の家も明治時代にカトリックが京都に伝わったから信者になったのです。そこからさらにたどっていくと弟子たちからイエスに行きつきます。幼児洗礼でない人も、信仰のきっかけは、イエスから弟子たち、そして教会に受け継がれてきたものとの出会いであるはずです。そのように信仰のバトンが次々と送られて今のわたしたちがあるのです。

新型コロナの感染拡大によって「日常を取り戻す」「新しい日常」など、「日常」という言葉がよく聞かれるようになりました。典礼暦の「年間」は「日常」を表します。公生活に入ってからのイエスの日常は、弟子たちとともに宣教する生活でした。弟子たちにとっては特殊な日常生活だったように思いますが、「イエスとともに過ごす日常」は、現代のわたしたちにとっても変わらないはずです。気づかなくても、忘れていても、常にイエスがともにおられるのです。
わたしたちが取り戻したいと思っている「日常」は、どんな「日常」なのでしょうか。コロナの時代にあっても、イエスとともに歩んでいるなら、それがあるべき日常です。
洗礼者ヨハネの役割はイエスを指し示し、イエスに引き継ぐことでした。そうしてイエスとの出会いは次々に引き継がれ、現代までつながってきました。信仰のバトンはわたしの手にあります。誰かにバトンタッチしてもイエスはともにおられます。先が見えない今の時代こそ、信仰のバトンを待っている人がたくさんおられるはずです。  (柳本神父)