11月7日 年間第32主日 マルコ12章38~44節  神に頼るしかない人々

イエスはエルサレムに入られたあと、神殿の境内で律法学者やファリサイ人と議論し、人々に教えられました。今日の福音はそのときの出来事です。
エルサレムの神殿には女性はここまで入れるという「女性の庭」に献金入れがありました。もちろん男性も入れるので礼拝に来た人はここで献金します。貧しいやもめが持っているお金の全部を献金したというお話です。
司祭の間には、この福音が読まれると教会の献金が増えるという伝説があります。現在は感染防止のために福音を聞いたあとに献金を集めることをしなくなったので、この伝説は幻になってしまいそうです。

ミレーの「落穂拾い」という有名な絵画があります。農村の牧歌的な作業風景のように見えますが、実は、旧約聖書に題材を取ったもので、やもめたちが麦の落穂を拾っている場面です。律法の規定で、地主は麦の穂を敢えて借り残しておいて、貧しい人々や寄留者たちが生活の糧として拾えるようにしなければなりませんでした。当時のそのような施しの習慣が律法として残されたようです。ルツ記の主人公ルツも姑ナオミのために落穂拾いをしていました。そのように、やもめは貧しい人の代表でした。
そのやもめが生活費のすべてを献金します。1クァドランスは100円くらいの価値だそうです。彼女にとって大切なお金ですが、持っていたとしてもすぐになくなってしまうことでしょう。それならばすべて神さまに捧げたら、きっと神さまが何とかしてくださるという思いがあったのではないでしょうか。

9月からマルコの福音の朗読の共通テーマとなっている、「神の国に招かれている人」と「この世で上になりたい人」との対比が今日の福音にも表れています。神の国に招かれている人々とは、盲人バルティマイや貧しい人々であり、上になりたい人々とはイエスから去っていった金持ちの男性や、偉くなりたいと思っていたときの弟子たちです。今日の福音では貧しいやもめが神の国の側、有り余る中から献金をする金持ちがこの世の側です。
財産、地位、名誉、腕力、知能、健康、容貌などに恵まれている人々はこの世においてそれらを頼りにして生きていくことができるでしょう。しかし、持たざる者はこの世で頼るものがありません。今日のやもめもこの世で頼るべきものがなく、神に頼るしか残された道はなかったのです。
やもめが献金したのは「生活費の全部」でした。このことは、生活すべてを神にささげるという彼女の信仰の表れだといえるでしょう。わたしたちは、この世のものに頼りながら人生を送っています。彼女のようにすべてを神にささげることはなかなかできません。しかし、イエスはそのようなわたしたちの代わりに自分の命をささげてくださったのです。何かちょっとでもお返しできることがあればいいですね。        (柳本神父)