12月19日 待降節第3主日 ルカ1章39~45節  胎内の子は喜んでおどりました

クリスマスを直後に控えた待降節最後の主日、今年の福音はマリアのエリサベト訪問の箇所です。先週、先々週の福音は洗礼者ヨハネが荒れ野で救い主の到来を告げる場面でしたが、今日は30年ほどバックしてヨハネとイエスが生まれる直前の出来事です。

エリサベトはヨハネのお母さん、マリアはもちろんイエスのお母さんです。エリサベトは「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとはどういうわけでしょう」と驚き、マリアと胎内の子を祝福します。エリサベトはマリアの胎内の子がどうして「わたしの主=救い主」とわかったのでしょうか。「聖霊に満たされて」とあるので聖霊のお告げがあったのかもしれません。
エリサベトは子どもが産めないと思われていたのに高齢になって授かりました。当時のイスラエル社会では子どもが産めないということは女性として恥ずかしいこととされていました。今でも結婚したら子どもを産むのが当たり前という考えがありますが、それが強い社会ではエリサベトのような女性はほんとうにつらい結婚生活を送っていたことでしょう。エリサベトはヨハネを身ごもってそのような立場から解放されたわけですが、そのことは、子どもを産めない女性に冷たい目を注ぐのではなく、あたたかく接するようにという、神のメッセージを表しているように思います。
マリアは聖霊によって身ごもったのですが、まわりの人はヨセフと一緒になる前に身ごもった恥ずかしい女性と見ていたと思われます。その意味で、マリアもエリサベトも周囲から冷たい目で見られる結婚生活を送ったと考えられます。その二人が、自分の結婚生活を神から与えられた使命として受け入れ合い、喜び合ったのが今日の福音の場面だといえるのではないでしょうか。

マリアが訪ねて来たとき、エリサベトのおなかの赤ちゃんは喜びおどりました。それは救い主と出会うことのできた喜びを表しています。しかし、エリサベトだけでなく、すべてのお母さんはおなかの赤ちゃんがおどる体験をしているはずです。それはおなかの中にいのちが宿っているというしるしです。エリサベトはマリアの胎内の子が祝福されていると言いましたが、すべてのいのちは神から与えられたものとして祝福されています。たしかにマリアのおなかの赤ちゃんは救い主であり神の子ですが、わたしたちみんな神からいのちを与えられた神の子なのです。
ヨハネが荒れ野で叫びをあげたのは、見捨てられている人々の叫びとつながっています。せっかく神から祝福されているのに、人間社会から見捨てられてしまういのちがあります。
今日の福音はわたしたちに大切なことを教えています。多様な夫婦のあり方を認め、偏見をなくすこと。おなかの赤ちゃんが(自分も含めて)おどったときのことを思い起こすこと。そして「すべてのいのちを守るため」に何ができるかを考えること。(柳本神父)