12月26日 聖家族 ルカ2章41~52節  お父さんもわたしも心配して捜していたのです

教会では、クリスマスの次の日曜日に聖家族を記念し、私たちの模範とするよう進めています。今年はクリスマスが土曜日なので次の日が聖家族の主日です。
そして選ばれた福音朗読はイエスが12歳の時のエピソードです。これはルカの福音書だけに記されている、両親が神殿礼拝の際にイエスを見失ったという出来事です。
過越祭に神殿礼拝に行くのはユダヤ教徒の大切な勤めでした。ヨセフの家族はガリラヤに住んでいたので、長い旅をして神殿に参っていた彼らは信仰深い人々だったのでしょう。
巡礼ツアーは一族で旅行するにぎやかなものだったようです。日本でも西国三十三か所巡礼やお伊勢参りはリクリエーションを兼ねていたそうですが、聖家族にとっても長旅とはいえ、楽しい旅でもあったことでしょう。子ども同士、女性同士、男同士でワイワイと話しながらの旅だったのではないでしょうか。
ところが帰り道にイエスがいないことに気づいた両親は、心配して探しながら神殿に戻り、ようやく学者たちと話しているわが子を見つけることができたということです。

聖家族というと、雲の上にいるような理想の家族のように思います。しかし、今日の福音に記されている聖家族はわたしたちと同じ、身近な姿を表しています。
いくら一族で旅していたとはいえ、帰り道を一日過ぎてから息子がいないことに気づくなんて、のんきすぎませんか、ご両親!それで大慌てで探し回り、神殿まで引き返してようやく見つけます。わたしも先日奈良公園で小鹿を撮ったあとスマホを落としてしまい、慌てて来た道を引き返し、何とか見つけましたがその比ではないことでしょう。
マリアは開口一番、「なぜこんなことをしてくれたのです」と叱りました。神の子といえども母親は容赦ありません。「お父さんもわたしも」と父親の分も叱っています。叱るのはお母さんの役目で、お父さんのヨセフは見守る役目だったのでしょうか。そしてイエスの返す言葉はたしかに正しいのですが、口答えしているようにも聞こえますね。そこには私たちと同じ、普通の家族の姿があります。

家族が再会したのは三日後のことでした。「三日後」は復活を象徴しているとも言われます。両親はイエスの言葉の意味が分からなかったようですが、マリアはこれらのことを心に納めていました。それで自分たちに与えられた息子がどのような存在であるかを理解していきます。わたしたちの家族もいろいろな体験を通して家族になっていきます。
弟子たちも復活の主と出会うことによって、イエスがどのような救い主であるかを理解していきました。そうして彼らは血のつながりを超えた「家族」となっていきます。それが教会の始まりです。信者であるなしにかかわらず、わたしたちも見えないところでイエスにつながっています。その意味ではみんな聖家族ですが、そのことに気づき、体験することによって、さらに聖家族として成長していくことができるのです。  (柳本神父)