1月31日・年間第4主日 マルコ1章21~28節  イエスは分断の壁を取り払われる

今日の箇所は先週の続きです。イエスが弟子たちを集め、宣教を始められてすぐの出来事として記されています。マルコの福音ではこの安息日の出来事を最初に記すことで、イエスの宣教がどのようなものであるかを表そうとしたと考えられます。

このとき、イエスの教えは「権威ある教え」として人々に驚きとともに受けとめられました。それまでの律法学者たちの教えは、「律法を守るためにはこうしなければならない」というようなものでした。律法を守ることは神に従うしるしとして大切なことですが、彼らの説明はそれだけにとどまっていました。しかし、イエスは神の思いをはっきりと伝えられました。人々はそこに神からの権威を感じたのでしょう。

そのとき、会堂に汚れた霊に取りつかれた人が登場します。汚れた霊が何を表すかはいろいろな説明がありますが、「聖霊」に対する「悪霊」と考えるとすれば、神に反対する霊ということになります。つまり、人を神から引き離す霊です。神と人の関係を分断させる力であるともいえるでしょう。また、神との関係だけでなく、人々の間にも分断を起こさせてしまいます。
イエスの時代、医学的に理解できない精神性疾患などは、悪い霊の仕業と考えられていたようです。また、病気や障害は、その人の罪の報いと考えられていました。それで、罪人と同じようにみなされ、社会から分断されていました。
イエスはいやしによって、「この人も神の子なのだ」ということを示されます。隔離されていた皮膚病の人たちは社会に戻ることができました。汚れた霊に取りつかれていた人も、いやされる(汚れた霊を追い出される)ことによって、人々のもとに戻ることができました。つまり、イエスのいやしのわざは社会の中にある分断の壁を取り払うわざでもあったということです。

感染症の流行によって、社会の中に分断が生まれています。感染者と非感染者の分断、帰省もできない中での家族の分断、感染を恐れる人と恐れない人の分断、教会共同体も集うことがかなわず分断されてしまっています。
感染拡大防止のためには隔離は必要ですが、それは社会から排除することではありません。医療従事者や保健所の方々は、感染者を回復させ、社会に戻すために必死の努力をされています。これはイエスのいやしのわざにも通じる尊い努力です。 
わたしたちが、分断を引き起こす力に飲み込まれてしまったとしたら、神との分断をも引き起こしてしまいます。教皇フランシスコの訪日テーマであり、司教の年頭書簡のテーマでもある「すべてのいのちを守るため」というタイトルは、人間社会の分断の壁を取り払われたイエスの教えとわざを実現するためのテーマなのです。      (柳本神父)