2月21日・四旬節第1主日 マルコ1章12~15節  イエスとともに四旬節を過ごす

17日の灰の水曜日から四旬節が始まります。そして今日は四旬節の最初の主日です。四旬節の旬は十日を表すので四十日間ですが、日曜日は主日なので四十日に数えません。第一主日にはイエスが荒れ野で誘惑を受けられたところが読まれます。

イエスが受けられた誘惑の内容について、マタイとルカの福音書では具体的に述べられていますが、マルコの今日の箇所では単に「誘惑」とだけ記されています。いずれにしても、イエスは荒れ野での苦行を終えて宣教生活に入られることになっています。
サタンは一般的には悪魔のことと考えられますが、イエスが受難を否定したペトロを叱られるときに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と言われたように、神の邪魔をする、神から引き離す存在であるといえるでしょう。誘惑そのものがサタンであるといっていいかもしれません。
誘惑を受けるのは人間のしるしです。イエスは洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けることによって、わたしたちの間に身を置かれ、わたしたちと同じ人間として誘惑に打ち勝たれました。イエスは神の子だから誘惑を退けられたのではなく、人間の弱さを身にまとった上で誘惑に打ち勝たれたのです。
これはわたしたちにとっての希望です。わたしたちは人間として、誘惑に合わないことはありません。ときには負けてしまうこともあるでしょう。しかし、誘惑を乗り越えられたイエスがともにいて支えてくださいます。そして、出会った罪人をゆるされたように、誘惑に負けてしまったときにはやさしく抱き起してくださるのです。

四旬節というと犠牲をささげる、我慢するというイメージがあります。大切なことではありますが、それらは四旬節の目的ではありません。四旬節は入信の秘跡を受ける人々とともに、主の死と復活を準備する期間です。イエスの受けられた苦しみを思いながら過ごすときでもあるので、犠牲や我慢は自然に行われるべきことだといえるでしょう。
洗礼志願者は、四旬節に「清めと照らし」の段階を通して洗礼へと導かれます。これは悔い改めのプロセスでもありますが、「悔い改め」は心を入れ替えて別の人間になることではありません。同じ人間ですが、神の光に照らされて新たな生き方が与えられるのです。そして、洗礼志願者のいるいないにかかわらず、教会は世界中の洗礼志願者とともに悔い改めのプロセスを歩みます。その先には復活の栄光があり、神の国が待っているのです。

昨年の四旬節と同様、今年の四旬節も新型コロナの感染が収束しない中で迎えます。四旬節だからコロナのときを我慢し、犠牲としてささげようという考え方もありますが、コロナでなくても四旬節は悔い改めのときです。元の日常に戻ることを願うことよりも、新しい世界のあり方を求めることこそ四旬節の精神であるといえるでしょう。 (柳本神父)