2月28日・四旬節第2主日 マルコ9章2~10節  復活の栄光はすでに来ている

毎年、四旬節第二主日の福音はイエスの変容の場面が朗読されます。今年はB年なのでマルコの福音が読まれます。四旬節なのに主の栄光を表す場面が読まれることに違和感を覚える方もおられるかもしれません。かつて、わたしもそうでした。
わたしが司祭になって最初の任地は京都の西院教会の助任司祭でした。主任司祭は故・松本秀友神父さんでした。食事のときだったかお茶のときだったか、福音朗読箇所の話になり、「わたしはこの変容のところがよくわからないんです」と言ったところ、松本神父さんは「ぼくはこの箇所は好きやで。キリストの復活の栄光が表されているところやし」と言われました。それ以来、わたしもこの箇所が好きになりました。

今日の箇所の前にはイエスがご自分の死と復活について、弟子たちに予告する場面が記されています。そのときペトロはイエスをいさめて叱られました。ペトロをはじめ、弟子たちにとって主であるイエスが排斥されて殺されることは考えたくなかったことでしょう。イエスの弟子である自分たちにも迫害が及ぶことを心配したのかもしれません。
イエスは弟子たちの中で、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて山の上で栄光に輝く姿を示されます。なぜこの三人だったかはわかりませんが、イエスをいさめて叱られたペトロが入っていることには意味がありそうです。彼らが否定しようとした受難のあとに、復活の栄光があることを輝く姿で示されたのではないでしょうか。

人間には未来を見たいという欲望があります。現在なら、半年後、一年後にはコロナがどうなっているか知りたいという人は多いでしょう。受験生なら合格しているかどうか、仕事を求めている人なら働いているかどうかを知りたいと思うことでしょう。一方、よい結果を先に知ると努力しなくなるという考え方もあります。わからないからこそ、人間は努力することが必要だという人もいます。
しかし、イエスは先に復活の栄光の姿を示されました。弟子たちだけでなく、わたしたちにも「あなたがたもわたしの復活の栄光にあずかることができる」と示してくださったのです。これは、個人的には救いにあずかることであり、全世界的にはかならず神の国が実現するという約束です。このようなハッピーエンドの約束をいただいたわたしたちは努力しなくなるでしょうか?むしろ、神の国が実現するという希望は、福音のために働くわたしたちにとって、さらに努力するための助けとなるのではないでしょうか。

今日の福音の場面でイエスが先に栄光の姿を表された出来事は、現代のわたしたちにとっても意味があります。いま、この瞬間にも復活の栄光があるということを示しているのです。コロナで暗い気持ちになりがちな現在ですが、あちこちに隠れている復活の希望を見つけながら、復活祭と神の国を準備していきましょう。         (柳本神父)