4月10日・聖金曜日 ヨハネ18章1~19章42節  神との交わりの中で

聖金曜日にはヨハネ福音書から受難の箇所が朗読されます。受難の主日にも受難の朗読がありますが、今年はマタイでした。両方を比べて味わってみるのもいいかもしれません。

今日の福音朗読の最初はイエスの逮捕から始まります。ユダも「イエスを裏切ろうとしていた」とありますが裏切る場面はヨハネ福音書には出てきません。しかし、ユダだけでなく、ペトロもイエスを裏切ります。最後の晩餐のあと、「あなたのためなら命を捨てます」と言ったにもかかわらず、裁判のときには三度、イエスの弟子であることを否定しました。マタイとマルコの福音では「呪いの言葉さえ口にしながら」とあるので、イエスを侮辱することまで言って自分の身を守ろうとしたのでしょう。
 イエスを無罪であるとして釈放しようとしていた総督ピラトもユダヤ人たちを恐れ、十字架につけるために引き渡します。このような人間の弱さからくる恐れの中で、イエスの死は準備されていきます。

イエスが総督に尋問される前に大祭司カイアファのもとに連れていかれます。彼はイエスを殺す計画の際に、「一人の人間が民の代わりに死ぬほうが好都合だ」と言った人です。彼は何を恐れていたのでしょうか。
 当時、ローマ帝国はイスラエルを属国としてある程度の自治権と宗教の自由を認めていました。しかし、ローマ帝国と結びついて権力を維持していたヘロデ王や宗教指導者に対する不満もあって、民の中には反逆を企てるグループもありました。熱心党はその一つです。イエスもそのような人々に担ぎ上げられて反乱を起こすかもしれないと思われていたようです。それで反乱の芽を摘み取り、自治権とユダヤ教を守るためにイエスを殺そうとしたのでした。彼も恐れていたのです。
 人間の恐れは神との関係を損ないます。ペトロは主であるイエスを否定し、ピラトは死刑を下し、大祭司たちは民と自分たちを守るために一人の人間を犠牲にしました。しかし、イエスはそれを赦し、運命に身をゆだねたのです。

わたしたちも新型コロナウイルスの前に恐れをいだいています。この先どうなるのかという不安もあります。わたしも恐れと不安の内にこの文章を書いています。しかし、その中で、イエスの受難を黙想することは大きな意味があります。なぜならば、わたしたちはイエスの受難の結末を知っているからです。
 ひとりでも多くのいのちを救おうと努力する医療従事者の方々、外出禁止の中で何とか喜びを分かち合おうとする人々、病床から励ましのメッセージを発信する人々がいます。イエスが苦しみの中にも父との関係を信じ続けたように、わたしたちも神との交わりの中でこの苦しみのときを過ごすことができるはずです。

(柳本神父)