3月21日 四旬節第5主日 ヨハネ12章20~33節  イエスは一粒の麦として亡くなられた

今日のイエスの言葉は、フィリポとアンデレが「エルサレムに来たギリシア人が、イエスに会いたいと言っている」ことを伝えたことがきっかけとなっています。ギリシア人は異邦人であるので、すべての人を救うために来られたイエスにとって、「時が来た」と感じられたのかもしれません。先週の福音に続き、イエスこそがすべての人に開かれた神殿であることが強調されているようです。

続いてイエスは「一粒の麦」のたとえを語られます。麦は育って実を結ぶためには大地に蒔かれなければなりません。それを「地に落ちて死ななければ」と表現するのは言いすぎじゃないか、縁起でもないと思ってしまいますね。でも、「地に落ちる」はこの世に降りて来て人々に排斥されること、「死ぬ」は十字架の死のことだと考えると、これはイエスご自身のことを言っているのだ、と理解できます。
イエスはご自分の死によって救いを実現され、「多くの実」どころかすべての人に命を与えてくださいました。そして、イエスはその生き方をわたしたちにも求められます。

「この世で自分の命を憎む」というのも極端な表現のように思います。教皇フランシスコの訪日テーマ「すべてのいのちを守るため」の「いのち」もこの世の命を表しているはずです。では、「命を憎む」とはどういうことでしょうか。これは「命を愛する」に対応しています。神から与えられた命を「愛する」ことは大切ですが、それを我が物として執着することによって神とのかかわりを失ってしまいます。「憎む」の原文の意味は「より少なく愛する」ということで、自分だけのものとして執着しない、という態度を表しています。
「タラントンのたとえ」(マタイ25章14節~13)も同じテーマだといえるのではないでしょうか。主人から財産を預かった人が、それを使って儲ける話ですが、預かっている財産を命に置き換えてみましょう。「儲ける」ためにはお金を使わなければなりません。土に埋めた人のように、財産を失いたくないと思った人は、その価値を生かすことができません。神さまから預かった命(人生といってもいいでしょう)も、人のために使うことによって生きてきます。タラントンのたとえも、たくさん儲けたから主人にほめられたように思ってしまいますが、主人は「使ってくれた」ことを喜んだのではないでしょうか。

わたしたちは常に自分の命に執着し、失うことを恐れ、この世の富や権力への誘惑に負けてしまいます。それが人間の弱さです。そして、新型コロナウイルスの流行は、そのような人間社会の弱さをもさらけ出す結果を招いてしまいました。しかし、イエスが示される生き方は、そのような人間社会に対する最高のワクチンだといえるでしょう。
わたしたちはなかなかイエスのように生きることはできないかもしれません。でも、イエスにつながることから、執着から解放される生き方への道が開かれるのです。(柳本神父)