4月1日 聖木曜日 ヨハネ13章1~15節  愛のうちに弟子たちの足を洗われる

聖週間の木曜日のミサは最後の晩さんを記念することから、「主の晩さんの夕べのミサ」と呼ばれ、「過越の聖なる三日間」の始まりとされています。例年、ヨハネの福音書から主の晩さんの場面が朗読されます。

ほかの福音書ではパンとぶどう酒をご自分の体と血として与えられるのですが、ヨハネの福音書には書かれていません。代わりにイエスが弟子の足を洗う場面があります。それで聖木曜日には任意で洗足式が行われるわけですが、今年は行われません。
新型コロナが拡大し始めたころ、お風呂屋さんで身体を洗っても足ふきマットは共用で、脱衣場の床も裸足で歩くので、私は教会に帰ってもう一度足を洗ってから新しい靴下に履き替えるという習慣がつくようになりました。昨年の聖木曜日は司牧チームだけでミサを行ったので洗足式がなかったのですが、お風呂屋さんに行ったあとでいつものように足を洗いながら「今日は一人で洗足式かあ」と思ったものです。

それはともかく、なぜヨハネの福音書では、最後の晩さんで最も大切ともいうべき、ミサの原型でもあるパンとぶどう酒の食事が出てこないのでしょうか。
今日の福音朗読の最初に、イエスは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれています。このことから、弟子の足を洗うのは、イエスの愛のしるしであることがわかります。さらに、今日の箇所の続きを読んでみると、ユダが出て行ったあと、イエスは弟子たちに説教をされます。その中で、迫害や復活の予告とともに、「互いに愛し合いなさい」という「新しい掟」を与えられます。今日の箇所の「互いに足を洗い合わなければならない」という命令は「互いに愛し合いなさい」という意味だといえるでしょう。
 イエスの時代、人の歩く道はかなり汚れていたようです。裸足に履物を履いているので、足は汚れます。それで家に入るときに足を洗います。それは奴隷や下僕の役割であったとも言われています。つまり、イエスが弟子の足を洗われたのは、下僕の役割を自ら行われたということです。足を洗うときには、背を屈め、頭を下げなければなりません。いちばん低いところに触れることは、社会の底辺で泥にまみれている人々への奉仕を表していると考えることもできます。イエスのこのような姿は、すべての人の救いのために、自分の命をささげられる十字架の愛の姿でもあります。

 聖体の秘跡は、イエスの死と復活を記念し、イエスと結ばれる秘跡です。わたしたちが聖体の秘跡にあずかるのは、イエスのように愛に生きるためです。他の三つの福音書において、弟子たちにパンとぶどう酒を与えて「これをわたしの記念として行いなさい」と言われたイエスの教えは、ヨハネの福音書で弟子の足を洗って「互いに愛し合いなさい」と言われた教えと同じことを表しているのです。              (柳本神父)