4月11日 復活節第二主日 ヨハネ20章19~31節  見ないのに信じる人とは

復活の主日の福音では、まだイエスは姿を表していませんでした。その後、復活されたイエスは徐々に弟子たちや女性たちの前に現れ、ご自分が復活されたことを示していかれます。今日の福音では弟子たちに、そしてトマスにご自分の姿を見せられます。

弟子たちはイエスが処刑されたあと、鍵をかけて家の中に集まっていました。イエスが殺されたあと、同じ目にあわされるかもしれないと恐れていたのでしょう。現在の新型コロナウイルスを恐れて閉じこもっている状況と似ているかもしれません。ところがイエスは彼らの前に姿を現わされました。
このことは、わたしたちが求める前に、イエスのほうから来てくださることを表しています。復活のイエスはそういう方なのです。みなさん、ステイホームだった昨年の復活節に、おうちでイエスと出会った体験はありましたか?あればぜひ分かち合ってください。なくても知らないうちにイエスは来られていたはずです。

弟子たちにイエスが現れたとき、トマスはその中にいませんでした。彼は「あの方の傷跡に触れてみなければ決して信じない」と言いました。そのため、彼は「疑り深いトマス」と呼ばれることもあります。しかし、はたして彼は弟子たちの言葉を疑ったのでしょうか。おそらく彼は自分だけが仲間外れにされて悔しいので、「ほんとうにイエスが現れたんだな」と思いながらも「意地でも信じるって言ってやるもんか!」と思ったことでしょう。それだけトマスはイエスに会いたいという気持ちが強かったのではないでしょうか。
次の機会にトマスはイエスと会うことができました。イエスが手と脇の傷に手を入れなさい、と言われたのは、トマスの言葉に基づいています。来週のルカの福音でイエスは手足を見せて「まさしくわたしだ」と言われますが、十字架上で殺されたご自分が肉体をもって復活したのだ、ということを示されたのでしょう。
トマスはイエスと出会って「わたしの主、わたしの神よ」というすばらしい信仰宣言を行います。これは彼が最初に出会えず、意地を張って「決して信じない」と言ったからこそ与えられたものでした。わたしたちも、意地になって「神なんて信じるもんか」「教会なんて行くもんか」と思うこともありますが、イエスは先回りして待っておられるのです。

最後にイエスはトマスに「見ないで信じる人は幸い」と言われます。イエスはトマスを責めているのではなく、すべての人を信仰に招いておられる言葉です。わたしたちのことを言っておられるようにも思いますが、最初に述べたように、わたしたちはどこかで復活のイエスと出会っています。その意味ではわたしたちも「見て信じる者」です。まだイエスとの出会いに気づいていない人と復活の喜びを分かち合うように、先に姿を見せてくださっているのです。                          (柳本神父)