4月2日 聖金曜日 ヨハネ18章1~19章42節  わたしもイエスの十字架に責任を負っている

聖金曜日はイエスの受難と死を記念する日です。この日と翌日の日中、主の復活を記念するミサは行われません。そして、「主の受難の聖式」では、ヨハネの福音書から受難の場面が朗読されます。

福音はユダの裏切りとイエスの逮捕から始まります。そのあとの内容は、受難の主日に朗読される共観福音書と共通しています。ただ、ヨハネの福音では裁判での尋問の場面はかなり詳しく述べられています。ここでも、イエスをめぐる人々の人間性がドラマチックに描かれています。
教会での朗読に際して、群衆の言葉を参加者が読む習慣がありますが、これはイエスの十字架にわたしたちもかかわっていることを表しています。イエスを十字架につけたのは、遠い昔に遠くの国で私たちの知らない誰かのせいではなくて、私たちも罪を犯してしまう者として、イエスの十字架に責任を負っているのです。
罪というと、個人的なものを思い起こします。ゆるしの秘跡でも自分が犯した罪を告白します。しかし、私たちは社会的な罪に加担していることを忘れがちです。

イエスはなぜ死刑に処せられたのでしょうか。誰がイエスを十字架につけたのでしょうか。ここで思い起こすべきは、イエスがラザロを生き返らされたあと、イエスの処遇を話し合うために召集された最高法院での大祭司カイアファの言葉です。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
彼らは、多くの人々がイエスを奉じることで、ローマ帝国に対する反乱が起きてしまい、ローマ軍が神殿も国民も滅ぼすことを恐れていました。そのためにイエス一人を犠牲にすることを選んだのです。
これは社会的な罪の構造です。戦争に勝つためには犠牲者が出るのは仕方がない、企業の利益を得るためには貧しい国から安く買いたたくべきだ、多数の人々の便利のために少数の人々は不便を忍ぶべきだ、といった考え方です。そういう社会構造を容認し、あるいは見てみぬふりをするとき、私たちも弱い立場の人々を苦しめる側に立っているのです。イエスはそのような苦しみを受ける人々とともに歩まれました。そして、最後にご自身も多くの人の犠牲となる役目を負わされたのです。

イエスの受難と死は、耐え難い身体の痛みはもちろんですが、心の痛みも大きかったことでしょう。愛する弟子に裏切られ、否定されてしまった苦しみ、人々から見捨てられ、「殺せ」と叫ばれた苦しみ、兵士たちから侮辱を受けた苦しみなど、大いなる苦しみのうちに息を引き取られました。だからこそ、わたしたちの苦しみをいちばんわかってくださる方なのです。                              (柳本神父)