6月21日・年間第12主日 マタイ10章26~33節  正しく恐れ、神に信頼する

今日は年間第12主日です。ひさしぶりに「年間」となり、祭服も緑に変わります。とはいえ、週日は聖霊降臨の週から年間に入っています。聖霊を受けた弟子たちはキリストの福音を広め、神の国の完成に向かって歩み始めました。つまり、聖霊降臨から教会が誕生したわけです。ですから、「年間」は記念するものが何もないときではなく、教会の宣教を記念する大切なときです。福音もイエスの宣教生活やみことばを通して、わたしたちの宣教の使命を新たにする内容となっています。
今日の福音はイエスが弟子たちを宣教に派遣される際に語られたことばです。その際、迫害を受けるかもしれないという前提で述べられています。そこから「恐れ」について語られます。

イエスは、人間ではなく、神を恐れなさい、と言われます。そのあとで、「恐れるな」と言われます。「どっちやねん!」と言いたくなりますが、神を恐れるということは怖がるということとは少し違うようです。
神はわたしの髪の毛の数もご存知だそうです。かつて、故・浜尾枢機卿様が日本にいらしたとき、神学校では「浜尾司教様(当時)は、神さまの仕事を助けている」と言われていました。なぜなら、髪の毛がほとんどなかったので、神が髪の毛を数える仕事を減らしているから、ということでした。もちろん冗談です。以前、ローマに行ったとき、たまたま世界難民移住移動者委員会の担当であった浜尾枢機卿様のスタッフだった女性の車に乗せていただいたときに、「実にすばらしい方だった!」とおっしゃっていました。ほんとうの意味でも神さまの仕事を助けてらしたということですね。

敵に弱みを握られると恐ろしいですが、自分を守ってくれる人が自分の弱さも性格も知っていると心強いものです。お医者さんは体の弱い部分を知っているからこそ治せます。弁護士はすべてを聞いた上で弁護します。まして、神さまがわたしの欠点や弱さを含めてすべてを知っておられるということはどんなに心強いことでしょう。だから「恐れるな」と言われるのです。

「恐れ」はだれにでもあるものです。人間にとっても、動物にとっても、「恐れ」は身を守るための本能であるといっていいかもしれません。でも人間は、その「恐れ」を心の中で大きくしてしまい、それにとらわれてしまう傾向があります。新型コロナウイルスについて「正しく恐れる」ということが言われてきましたが、それはほかのことにも当てはまるかもしれません。「恐れ」にとらわれるのではなく、すべてを知って守ってくださる神への信頼へと結びつけていくことが「恐れ」の正しい使い方です。それは、神の仕事を助ける宣教へとつながっていくのです。                   (柳本神父)