6月26日 年間第13主日 ルカ9章51~62節 イエスに従うことは神の国を求めること

 

今日は年間第13主日、日曜日としては久しぶりの年間で、祭服も緑になります。実は聖霊降臨後の週日から年間に入っています。日曜日は三位一体の主日、キリストの聖体の主日と続くので年間に入ったことを気づかない方も多くあることでしょう。・けれども、聖霊降臨から弟子たちが宣教を行ったということになるので、聖霊降臨のあとは弟子たちの宣教、そしてその後を継いだ教会の宣教を記念する年間に入るのです。

 

今日の福音でイエスが人々を招くところが選ばれているのは、年間第5主日と第6主日に弟子を招かれたことに対応しているからかもしれません。しかし、受難に向かわれる今回、イエスは厳しい要求をされます。父親の埋葬や家族へのあいさつさえも許されません。それぐらいは許しされてもいいように思いますがなぜでしょうか。

私が神学校に入る前、田中司教様や養成担当の神父様方には「大学院の二年を終えたら行きます」と伝えていました。けれどもいよいよその時が近づいたとき、今まで好きだったことができなくなることや、家族と離れることがつらくなって決心がつかず、「もう一年待ってください」と言うつもりで田中司教様のところに行きました。ところが司教様は神学校入学手続きのあいさつに来られたと思われ、わたしが言葉を発する前に「来年は何人入る予定です」「入学のスケジュールはこれこれです」と説明し始められました。わたしは司教様のうれしそうな顔を見ていると自分の気持ちを伝えられず、ついに「よろしくお願いします」と言って帰りました。司祭になるのだけが召命ではありませんが、あの時断っていたらいつまでも神学校に入るのを伸ばしていたことでしょう。天国の田中司教様、実はあのときはそういうことだったのです。

イエスは招いた人がいったん家に帰ったらもう来なくなるかも、と考えられたのかもしれません。別の箇所でイエスが弟子になりたいという人を帰す場面もありますので、イエスと一緒に行くことだけがイエスに従うことではありませんが、「神の国のために働く」のはイエスに従う者にとって最優先事項です。わたしたちは何よりも神の国を求めなければなりません。今日のみことばで、イエスはそのような思いを伝えられたのではないでしょうか。

 

イエスはサマリアを通ってエルサレムに向かわれました。ユダヤ人と敵対関係にあったサマリアの人々は、エルサレムに向かわれるイエスを歓迎しませんでした。しかし、イエスがエルサレムに向かわれたのは、民族や国家を超えた「神の国」を実現するためでした。   

神の国のために働くのは司祭や修道者だけではありません。教会に来ていても来られなくても、イエスに従って神の国のために働くことはできるのです。ウクライナ侵攻をはじめ、国際関係の緊張が高まっている今も、「ただ、神の国を求めなさい」(ルカ12章31節)というイエスのことばに応えることが必要なのです。        (柳本神父)