6月6日 キリストの聖体 マルコ14章12~16、22~26節  わたしたちはキリストの体である

教会の典礼の中で、一年に二回、キリストの聖体を記念する日があります。ひとつは聖木曜日の主の晩さんの夕べのミサ、もうひとつは今日のキリストの聖体の祭日です。
聖木曜日のミサは受難を前にした最後の晩さんの記念に重点が置かれています。そして聖霊降臨を経て、第二の年間に入った今日は、信仰生活における「旅路の糧」という意味が強調されているといえるでしょう。

さて、今日の福音はマルコによる最後の晩さんの場面です。福音書には、これが過越の食事であったことが明記されています。「過越の食事」は神がイスラエルの民をエジプトから導き出してくださったことを記念する食事でした。
イスラエルの民にとって、過越=エジプト脱出は、神がともにおられることを体験した決定的出来事でした。この体験を末代まで受け継ぐためにイスラエルの民は過越祭を毎年行ってきたのです。さらに、エジプトでの奴隷生活からの解放は、罪から解放されて、神とともに約束の地に向かう旅へのスタートとなったことを意味しました。
教会ではイエスの死と復活を「新しい過越」と呼んでいます。それは、イエスの死と復活こそが、神がわたしたちと関わってくださった決定的出来事だったからです。そしてエジプト脱出のように、イエスの十字架によって罪から解放された人類が、新しい神の民として約束の地・神の国の完成に向かって歩み始めるスタートとなった出来事でした。
イエスは、過越の食事のパンを「これはわたしの体である」と、ぶどう酒を「わたしの血、契約の血である」と言って弟子たちに与えられました。この出来事を受け継ぎ、新しい過越を記念するのが教会の聖体の秘跡、ミサなのです。
秘跡は「見えない神の恵みの目に見えるしるし」ですが、聖体の秘跡はわたしたちがキリストと一致することを、キリストの体であるパンをいただくことによって体験できる最高の秘跡であるといえるでしょう。しかも、キリストはお一人の方ですから、キリストの体をいただいた者どうしは一つに結ばれるということを体験するのです。
このようなすばらしい秘跡を与えてくださったにもかかわらず、新型コロナの感染拡大によって制限しなければならないことはほんとうに残念で心苦しいことです。

聖体拝領は「コムニオ」とも呼ばれます。これは「一つになる」という意味で、キリストと一致し、わたしたちがキリストのうちに一致するという意味が込められています。そして、司祭は「キリストのからだ」と言って聖体を授けます。「このパンはキリストの体です」という意味のほかに「あなたもキリストの体です」という意味が込められています。
わたしたちは秘跡から離れていてもキリストの体の一部です。わたしは非公開ミサのときには、秘跡の恵みがみなさんのもとに届くように祈りながら捧げています。ミサに行けなくてさみしい思いをしたときには思い出してくださいね。       (柳本神父)