7月26日・年間第17主日 マタイ13章44~52節  選び、捨てるのは神のほうだった

今日の福音も、「天の国」についてのたとえ話です。「天の国」つまり、「神の国」は神と人がともにある状態を表しています。ここでは、「畑に隠された宝」と「高価な真珠」の二つのたとえで神の国のことを学ぶことができます。

自粛期間中に整理をするつもりでダンボール箱を開けてみました(まだ片付かないままですが)。そうすると昔に買ったものがいろいろ出てきました。「ああ、このときはこんなものを一生懸命集めてたんだなあ」とか、「よく捨てずに持っているなあ」などと思いながら見ていると整理がつかなくなりますね。そういったものはなかなか捨てられません。けれども、捨てられなくてもしまいっぱなしになっているということは、今は必要としないということです。それは、いま必要としているものがあるからです。

畑の宝を見つけた人も、高価な真珠を見つけた人も、それを得るためにお金を払います。足りなければ持ち物を売り払います。お金は大切なものですが、もっと大切なものを得るために手放します。売り払う持ち物も同じです。得るものの大きさのために持っているものを犠牲にすることもいといません。それだけの値打ちがあるものを見つけたからです。
わたしたちは、キリストに従うためにいろいろなものを捨てなければならない、と教えられています。「捨てる」となるといろいろ悩んでしまいます。けれども、「捨てる」のが目的なのではなく、キリストを「選ぶ」ことが目的なのです。
それでもわたしたちはキリストを選びきれない弱さを持っています。ではどうしたらキリストを選びきることができるのでしょうか。

「福音のヒント」というホームページに興味深い解釈が紹介されていました。それは、宝や真珠はわたしたち人間を、持ち物を捨てる人は神ご自身を表しているという説明です。これはわたしにとって目からウロコでした。わたしはそんなに値打ちのある者か、とも思ってしまいますが、たしかに父なる神は最愛のひとり子を、イエスはご自分のいのちを犠牲にしてくださったのです。
ここには二つのメッセージがあります。一つは「あなたはそれだけの値打ちがある大切な存在なのだ」ということ。そしてもう一つは「あなたが選んだのではなくわたしが選んだのだ」ということです。これは選びきれないわたしに代わって神が選んでくれたということでもあります。ここに神の愛が表れています。

新型コロナウイルスの終息が見えない不安の中で、神を選びきれない自分の弱さを感じることがあります。けれども、自分の弱さを感じるときは、そんなわたしのためにすべてを捨ててくださった神の愛の深さを味わう機会でもあるのです。      (柳本神父)