7月31日 年間第18主日 ルカ12章13~21節 神の国の価値観と財産管理
今日もイエスがエルサレムへ向かう途上の出来事です。先週の福音から少し飛んだ箇所です。遺産の分配について訴えてきた人の話から、イエスは財産について教えられます。
なぜこの人はイエスに遺産の分配のことを頼んだのでしょうか。当時のユダヤ教のラビ(先生)は、教えを伝えるだけでなく、社会的な裁定や仲介もしていたようです。イエスもラビの一人とみなされていたので、遺産分配の仲介を頼んだのでしょう。
わたしの両親には遺産がありませんでした。「親の遺産がありましたので」という話を聞くとうらやましく思うこともなくはないですが、おかげさまで遺産争いもなく、三人きょうだい仲良くできている今のほうが幸せだと思っています。
財産はこの世を生きるために必要なものです。しかし、それにこだわりすぎると財産が増えることに喜びを感じるようになってしまいます。将来のために蓄えるための手段が目的になってしまいます。ある司教は「お金には糊がついている」と言ったそうです。なかなか手放すことができないということでしょう。
それでイエスは「愚かな金持ちのたとえ」を語られます。この話はルカの福音だけに伝えられているものです。この金持ちは収穫した穀物を蓄えるために大きな倉を建てるのですが、収穫物を蓄えるのは必要なことです。創世記のヨセフの物語でも飢饉に備えて収穫を蓄えたのでエジプトの民は飢餓から救われました。けれども、この金持ちは自分が遊び暮らすために蓄えます。そして、それを使うことなく金持ちはこの世から去るのです。
お金を貯める、収穫を蓄えること自体は悪いことではありません。しかし、この世の財産に頼ると、財産がものをいうこの世の価値観に頼る生き方になってしまいます。それは神の力を頼らない、神を必要としない生き方です。神の前に豊かにならないとは、このような生き方のことをいうのではないでしょうか。また、富や資源の独占は、社会における貧富の差を拡大します。貧困にあえいでいる人がいる中で、ぜいたくに遊び暮らす生き方は神の思いに適わない生き方です。
とはいえ、今話題になっている宗教のように、自分の財産をすべて教会に献金することは望まれていません。献金が多いほど願いが叶う、天国の位が上がるという考えも、やはりこの世の価値観に基づくものなのです。
財産をあの世に持って行けなくても、子や孫が不自由しないように残してあげたい、という思いもあるでしょう。また、老後をそれなりに安心して暮らせるように蓄えておきたいという方もおられることでしょう。そのためにはこの世の価値観に基づく政治ではなく、貧しい人も将来を心配せずに暮らせる社会のあり方を政治に求めていく必要があります。
この世の価値観ではなく、神の国の価値観を求めるとき、自分にふさわしい財産との付き合い方が見えてくるのではないでしょうか。 (柳本神父)