4月14日 聖木曜日 ヨハネ13章1~15節 あなたがたも互いに足を洗い合いなさい

聖木曜日のミサは「主の晩さんの夕べのミサ」と言われます。もちろん最後の晩さんの記念のミサです。今日はミサ(聖体の秘跡)の始まりを記念する日です。

最後の晩さんは別れの食事でした。聖書には「食事」「宴会」がキーワードになっている箇所が多くあります。「徴税人や罪人と食事をしている」と非難される箇所や、放蕩息子が帰って来たので「食べて祝おう」と父親が言う場面があります。また、イエスはたびたび神の国を「宴会」や「婚宴」にたとえられています。イエスはよっぽど食べるのが好きだったのでしょうか。
しかし、聖書に限らず、わたしたちは「食事」「宴会」を特別なものと考えています。特別なお祝いのときには食事をしますし、彼、彼女と食事をするのは特別な関係であるとみなされます。お祭りの際の食事も「直会(なおらい)」と言って、神さまとの交わりを表します。ですから、イエスが「食事」を記念として残されたのは、イスラエルだけでなく、万国共通で人間社会で大切にされてきたことに基づくことだったのです。そう、イエスは神さまとわたしたちが、またミサに参加する人同士が特別な関係であることを表す食事としてミサを残されたのです。

イエスは最後の晩さんのときに「これをわたしの記念として行いなさい」と言われました。それをミサの制定句と言いますが、今日読まれるヨハネの福音にはその言葉が出てきません。その代わりにイエスが弟子の足を洗う場面があります。そしてイエスは「師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われました。これが「わたしの記念として行いなさい」と言われた言葉に対応するものです。
「イエスのように互いに足を洗い合う関係」、これはイエスとつながり、互いに愛し合うという特別な関係になることです。逆に言えば聖体の秘跡は、イエスの体をいただいてイエスとつながるだけでなく、互いに愛し合うことが求められているといえるでしょう。
ところで祇園祭などでは、祭りの打ち上げ・慰労会のことを「足洗い」といいます。これはキリシタンの聖書の教えが町衆に伝わった…というのはウソです。なぜそう呼ぶのかはわかりませんが、偶然とはいえおもしろいですね。

交流を深め、特別な関係を築くためにも大切にされてきた食事会はコロナ禍によって大きく制限されるようになりました。ミサも聖体を口にするということで感染のリスクは避けられません。それで感染拡大の際には中止のやむなきに至ることもあります。交わりの食事ができなくなるのは残念ですが、できない分は神さまが必ずフォローしてくださいます。そのことに信頼することも含めての聖体の秘跡の記念なのです。    (柳本神父)