7月4日 年間第14主日 マルコ6章1~6節  「知っている」という落とし穴

今日の福音も先週の続きです。イエスは故郷のガリラヤのナザレに戻られました。ここで神の国の福音を告げられるのですが、多くの人はイエスの教えに耳を傾けませんでした。
どうして彼らはイエスを信じなかったのでしょう。イエスのことを知らなかったのでしょうか。いえ、逆にイエスのことをよく知っていたのです。

彼らはイエスについて、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ。シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と言います。これは事実です。イエスに兄弟姉妹はいなかったはずですが、当時の言葉ではいとこも兄弟や姉妹に含まれるので、正しいことを言っているわけです。現代は、隣にどんな人が住んでいるか知られていないことも多いですが、イエスの時代、小さな村では隣近所のことはよく知られていたと思われます。
当時の「大工」の仕事は社会的にも認められていた職業でしたが、宗教について教える立場とは違っていました。それで人々はイエスのことを預言者だと認められなかったのでしょう。また、「マリアの息子」という言い草には、身ごもっていたのにヨセフと結婚したことに対するさげすみのニュアンスが込められていたのかもしれません。
故郷の人々は、イエスのことをよく知っていたからこそ、イエスの言葉を素直に聞くことができなかったのです。

わたしたちにも同じような体験があるかもしれません。「あの人はああいう人だから」という先入観で接していると、その人のいいところが見えなくなってしまいます。自分の子どもがとてもすばらしいことを伝えてくれているのに、「いつものことだから」と聞き流してしまうともったいないですよね。また、苦手な人がとても立派なことをしているのに、それを認めたくないと否定してしまうこともあります。
他の人だけではありません。自分自身についても「自分は何もできない」「ダメな人間だ」と思い込んでしまい、神がわたしに与えてくださっている働きを否定してしまうこともあります。
わたしたちは、ナザレの人々がせっかく救い主が神の言葉を告げているのを聞き逃してしまってもったいない、と思ってしまいますが、わたしたちも同じことをしてしまっているのです。

ナザレの人々も、「誰が語っているか」にこだわらず、イエスの話の内容をありのままに聞いていたら、それが「福音=幸せのメッセージ」であることがわかったはずです。 
わたしたちも、イエスの言葉を素直に受け入れるとともに、自分も含め、いろんな人にいろんな形で表れている神の働きを見逃さないようにしたいものです。  (柳本神父)