8月1日 年間第18主日 ヨハネ6章24~35節  神の国の福音に至る糧

先週からヨハネの福音書の6章が朗読されます。先週の福音はイエスがパンを増やされた奇跡の話でした。そのあと、弟子たちが湖の上を歩くイエスと出会った出来事が記されています。そして、向こう岸に着いたときに追いかけてきた人々との対話の中で、イエスが示された教えが今日のテーマとなっています。
イエスを追いかけてきた人々に語りかけるイエスの姿は、二週間前の福音朗読のマルコ6章にも登場しますが、イエスの態度は対照的に見えます。マルコ6章ではイエスは深く憐れんで人々に教えられますが、今日の福音では批判的に語られているようです。
これらの二つの箇所を比べてみると、イエスの伝えたかった思いが浮かび上がってくるように思います。「イエスを追いかけてくる群衆」という同じシチュエーションが二週間後の福音朗読に出てくることは朗読配分を決めるときには意図されてなかったことでしょうが、わたしたちが福音を黙想するためには良い助けになります。

イエスは今日の福音で、追いかけて来た群衆に「わたしを探しているのは…パンを食べて満腹したからだ」と言われているので、「この人について行けば、いい思いができる」と考えてついて来たことに対して批判されていると考えられます。また、15節において、人々はイエスを王にしようとしていたとあります。これらのことから、大勢の人々は、イエスに従うことによってほかの人よりも得をしたい、いい思いをしたいという「この世での利益」を求めていたようです。
イエスの教えはそうではありませんでした。神の国はこの世で苦しみを受けている人、社会の底辺にいる人たちのためにある、という「神の国の福音」でした。マルコ6章に出てくる人々はそうでした。社会で上になりたい、勝ち組に入りたいと思っている人々とは反対の立場だったのです。
そこでマルコの6章をふりかえってみると、イエスを追いかけてきた人々は「飼い主のいない羊のような有様」であったと書かれています。先々週の説教でも書いたように、彼らは飼い主となるべき祭司や律法学者から見捨てられた人々、つまり貧しい人々、罪人とされている人々、病気の人々、身体の不自由な人々、女性や子どもたちであったと考えられます。彼らこそ「神の国」の中心にいるべき人々でした。

イエスは「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われます。「朽ちる食べ物」は食べ物のパンのことですが、「この世での利益」を象徴しています。「永遠の命に至る食べ物」というと「あの世での救い」をイメージしますが、むしろ、「神の国の福音に至る糧」ということができるのではないでしょうか。そして最後に、その糧がイエスご自身であることが明らかにされています。それが「わたしが命のパンである」という宣言なのです。                  (柳本神父)