8月22日 年間第21主日 ヨハネ6章60~69節  わたしたちはだれのところへ?

今日までヨハネの福音の6章が朗読されます。今日はその結びのところですが、先週はたまたま被昇天の祭日と重なったので、年間第20主日のヨハネ6章51~58節が朗読されませんでした。今日の福音の冒頭で、多くの弟子たちが「実にひどい話だ」と言っているのはその箇所でイエスが語られる「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」という言葉のことです。
ヨハネの福音では最後の晩さんの場面で「これはわたしの体である」「わたしの血である」という聖体制定のことばが記されていませんが、その代わりにここで語られているということができます。今年はその大切な箇所が読まれないのは、被昇天をお祝いするためとはいえ、ちょっと残念な気がします。

ということで、今日の福音はそのイエスの言葉が前提となっています。そして多くの弟子が離れたということですが、十二人のほかにイエスに従う弟子が大勢いたようです。彼らはイエスの言葉が理解できなかったということですが、この世の価値観をもってイエスに従っていたのかもしません。イエスが、「わたしを探しているのは、パンを食べて満腹したからだ」(6章26節)と言われたように、この人について行ったらいい思いができる、得をすることができるという考えがあった可能性もあります。
それに対し、十二人の弟子たちはイエスに従うことを選びます。イエスは「あなたがたも離れていきたいか」と彼らに問いかけます。ユダヤ人や離れていった弟子たちに対するイエスの毅然とした態度をみると、十二人の弟子に対しても「離れて行きたければ行きなさい」と言っておられるように思いますが、果たしてそうでしょうか。
十二人の弟子たちはイエスの招きに応えてついてきた弟子たちでした。一緒に宣教生活を送ってきた中で、喜びも苦しみも共にする関係でした。わたしの勝手な解釈ですが、イエスの本音は「わたしを置いて行かないでくれ」だったのではないでしょうか。

イエスは神の子ではありますが、この世においては一人の人間として生活されました。当然、人間としての感情をもって生きられたということですし、聖書にもそのようなイエスの姿が描かれています。多くの弟子たちが去っていったときにはイエスもさみしさと悲しみを感じられたはずです。反対に、十二人の弟子たちが一緒に残ることを選んでくれたときにはほんとうにうれしかったのだと思います。そして、ペトロの言葉には心から喜びを感じられたことでしょう。
イエスはわたしたちに対しても、同じように問いかけておられます。それは、一人の人間としての問いかけでもあるのです。すばらしい答えをしたはずのペトロがイエスの裁判の際に否定したように、わたしたちもイエスを裏切るかもしれません。それでもイエスは「あなたについていきます」という答えを喜んでくださるのです。    (柳本神父)