8月8日 年間第19主日 ヨハネ6章41~51節  世を生かすパンをいただくわたしたち

今日の福音もヨハネの6章から選ばれています。内容的には先週の箇所の続きであり、ご自分が「天から降って来たパンである」ことをさらに深めて語られます。
今日の箇所にもこれまた先月のマルコの福音と共通する内容が出てきます。「これはヨセフの息子のイエスではないか」というのは7月4日の「この人は大工ではないか」と言ってイエスのことを受け入れなかった人々と共通します。異なっているのは、今日の福音がユダヤ人たち(宗教指導者)であるのに対し、マルコの福音では地元の人でしたが、いずれにしても先入観でイエスの言葉を受け入れなかったというところは同じです。
しかし今日の箇所では、人々は「天から降って来た」というイエスの言葉を受け入れない点が強調されています。「天から降る」ということは、父なる神のところから来るということですから、ここでイエスは、ご自分と父の関係を次第に明らかにされていきます。
そのように、ヨハネの福音書ではイエスと父なる神との関係が他の福音書よりもはっきりと、随所で述べられています。ヨハネの福音書の特色であるといってもいいでしょう。6章ではそれが「天から降って来たパン」という表現で示されているのです。

今日の箇所の最後は「わたし(イエス)が与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」というイエスの言葉で締めくくられています。「世」という言葉もヨハネの福音ではたびたび出てきます。いわゆる「この世=現世」のことを表しています。「現世」は「来世」の反対語で、宗教的には否定的に用いられる傾向があります。この世の人生はあの世に行くための通過点と考えられがちですが、イエスはここではっきりと「世を生かす」と言われます。
たしかに、この世の人生には限りがあり、この世で多くの人が求めるものはむなしいものです。しかし、神はこの世を造り、この世にわたしたちを生み出され、そして独り子を送ってくださったのですから、この世を大切にしてくださっているということです。
イエスはこの世で苦しみを受けている人々を前にして、「あの世で幸せになれるから我慢しなさい」とは言われませんでした。そして病気で苦しむ人には深いあわれみをもっていやしの奇跡を行い、罪の重荷に苦しむ人にはその場で赦しを与えられ、そのような人々を無視し、見捨てている人々には本気で怒りを表されました。これらはイエスがこの世での幸せを大切にされたからこその行いでした。

わたしたちが命のパンであるイエスの体をいただくのは、この世で幸せに生きるためであり、永遠の命をいただくためです。しかし、「永遠に生きる」ということはその人だけが救われるという意味ではありません。永遠の命であるキリストに結ばれたわたしたちは、その喜びを分かち合うことが大切です。とくにコロナの時代の今、分裂と不安にさいなまれている社会に、一致と喜びをもたらす使命を受けているのです。    (柳本神父)