9月11日 年間第23主日 ルカ 15章1~10節 それでも羊飼いは捜しに来る

先週の福音は「イエスに従う弟子の条件」の話でした。このあと「塩気のなくなった塩」についての短い戒めがあり、今日の箇所に続きます。

今日の箇所は「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」の三つのたとえ話です。全部読むと長くなるので通常は最初の二つが読まれます。共通するのは「失ったものを見つけた喜び」ということです。わたしも先日、無くしたと思っていた折り畳み傘を見つけました。頂き物でしたが、とても軽く、夏は日傘代わりになるので重宝していました。捜してもないと思っていたら書類の下から出てきました。本来ならば、たとえ話のようにみんなを呼んで宴会を開くところでありますが、コロナ下なのでやめておきました。
さて、これらのたとえ話がなぜ語られているかというと、イエスが徴税人や罪人に教えを語り、ときには食事を一緒にしていることをとがめる人々がいたからです。徴税人や律法を守らない人は神にふさわしくないとされ、イスラエルの共同体からは隔てられていました。しかし、「一緒に食事をする」というのは仲間であるしるしです。ファリサイ派の人々や律法学者は、彼らが忌み嫌う人々をイエスが受け入れ、仲間として接していたことをとがめたのです。
羊のたとえ話というと、群れから離れたかわいそうな羊が泣いている、羊飼いがそれを助けに行く、というほのぼのとしたイメージがありますが、みなさん、羊のかわいらしさにまどわされてはいけません。この場合、迷った羊は罪人の立場です。放蕩息子と同じ立場ですから、みんなを裏切って道を踏み外してしまったということですね。いまならネットやSNSで「自業自得だ」「自己責任だ」「群れのみんなに迷惑かけやがって」と非難のコメントが殺到することでしょう。それでも羊飼いは捜しに行きます。そして何よりも見つけたことを喜びます。それが神の愛なのです。
なお、病気の人や体の不自由な人、貧しい人のように罪のために報いを受けたと考えられていた人々も罪人に含まれていました。ですから、イスラエルの共同体から排除されていた人々も含まれています。イエスがそのような人々とともにおられたことは言うまでもありません。

神は見捨てられた人、排除されている人、罪の重荷に苦しんでいる人々を待っておられます。イエスが羊飼いとしてそのような人々を父のもとに導かれるのです。そして父なる神の思いを受け入れられないファリサイ派の人々や律法学者、放蕩息子のお兄さんもやはり離れてしまった迷える羊なので、やはり羊飼いが捜しに来てくださいます。そしてすべての人が揃ったとき、神は大宴会を開いてくださいます。それが神の国の完成です。
わたしたちはどちらの立場でしょうか。いずれの立場でも、神が招いてくださっていることを思い起こしましょう。羊飼いの呼ぶ声が聞こえてきませんか。   (柳本神父)