9月12日 年間第24主日 マルコ8章27~35節  あなたはわたしを何者だというのか

今日の福音は、耳が聞こえず舌の回らない人をいやされたという先週の奇跡の出来事から少し先の箇所です。今回の内容は奇跡ではなく、イエスと弟子たちの間で交わされる「イエスは何者か」という問答と、受難の予告です。マルコの福音では最初の受難予告なので、ここからエルサレムにおける受難への道が始まる分岐点ともいえる箇所です。

イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられます。「洗礼者ヨハネ」「エリア」「預言者の一人」という答えが返ってきますが、さらに「それでは、あなたがたは何者だというのか」と問われます。
わたしたちは、人から「イエスとは何者か」と聞かれたときに、正しい答えをしなければいけないと思いがちです。それでインターネットで調べた内容を答える、または「要理の本にはこう書いてあります」「○○神父さんはこう説明されています」と答えてしまうことがあります。けれども、その人は「あなたはどう思うか」を聞きたいのです。
イエスも弟子たちがどう思っているかを自分の言葉で聞きたかったのだと思います。それで、ペトロは「あなたはメシアです」と答えました。それは正しい答えでしたが、ペトロにとって「メシア」はこの世でイスラエルの王となる者であるという期待を込めた答えでした。そのため、イエスが権力者から排斥されて殺されてしまうようなことは受け入れられなかったのでしょう。ほかの弟子たちも同じ思いだったと思われますが、正直者のペトロはその思いを直接イエスにぶつけたのです。
それにしても「サタン、引き下がれ」とは厳しい言葉です。ペトロが悪魔だと言われているようです。しかし、「サタン」とは悪魔というよりも、マタイ16章でイエスが言われているように「神の邪魔をする者」ということです。弟子たちも不安になったのだと思いますが、受難の否定は自分たちの願いを優先して神の計画を邪魔することでした。
イエスはペトロのことを断罪されたのではなく、神の計画を邪魔せずに受け入れるように促されたのです。ほかの弟子たちが心の中で考えていたことを、ペトロは正直に口に出すことによって、受難の意味についてイエスから教えをいただくことができたのです。

イエスは受難の予告のあと、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。イエスの受難につながる言葉ですが、大切なのは「自分の十字架」というところです。わたしたちは人生においてさまざまな重荷を負っています。とくに今は、コロナ禍という人類共通の重荷もあります。それらを自分に課せられたものとして、しっかりと受け止め、イエスの助けに信頼して歩むこと、それが自分の十字架を背負うことです。
わたしたちもペトロのように思い違いをしているとき、神の思いを邪魔してしまっているときがあります。けれども、そのような気持ちを素直にぶつけるとき、イエスはそれを受け止め、わたしの十字架に手を添えて、方向修正をしてくださるのです。(柳本神父)