9月26日 年間第26主日 マルコ9章38~43、45、47~48節  逆らわない者は味方

今日の福音は先週の続きです。先週、先々週と同様に弟子の思い違いをたしなめながら、神の国の教えを告げられるという内容になっています。今日のイエスの教えは大きく分けて二つの部分から成っています。

ヨハネがイエスの名を使って悪霊を追い出す人が従わないのでやめさせようとした、と報告しました。それをいさめるところからイエスの前半の教えが述べられます。
ちょっと考えると、イエスの弟子でもないのにイエスの名前を使って悪霊を追い出す人は偽キリスト者ですね。ヨハネの言う通り、やめさせた方がいいと思ってしまいますが、イエスは「やめさせてはならない」と言われます。その理由は、「逆らわない者は味方である」ということでした。それにしてもおおらかな考えですね。
 しかし、この出来事がイエスの受難予告に続いていることを考えると理解できるかもしれません。イエスが権力者から排斥されて殺されるかもしれないというときに、理解を示す人がいることは大きな助けです。またイエスの受難は、聖書が成立した当時のキリスト者が直面している迫害の苦しみに重ね合わせられています。命の危険がある中で陰ながら助けてくれる人々の存在は、彼らにとっても大きな支えとなったことでしょう。
奈良ブロックでも「差別をなくす奈良県宗教者連体会議」や大安寺さんとの歳末共同募金など、宗教を超えて協力している取り組みがあります。また、無宗教であっても社会正義を実現するために努力している人々もいます。わたしも教区の諸宗教担当や三重刑務所の教誨師をしている関係で、いろいろな宗教の方々と交わっています。そのときに感じるのは、人間を超える存在の導き、いのちを大切にする心、平和を願う思いなど、共感・共有できるものがたくさんあるということです。
イエスはそのような教会外の「味方」の力を結集して神の国を実現しようとされているのではないでしょうか。

後半の教えは内容が変わります。おそらくイエスが別の機会に語られた教えが並べられたのでしょう。テーマは「つまずき」です。体の一部がつまずきとなるなら切り捨てなさい、とはえらく過激な表現です。もちろんそんなことはできるはずありません。「つまずき」というと、毎日の生活の中で犯してしまう罪を考えますが、ここでイエスが言われているのは神から引き離すという意味です。せっかくわたしたちを招いてくださっているのに、神に背を向けてしまわないように、人と人、人と自分をくらべて値打ちを決めてしまうことのないように、そして人を神から遠ざけることがないようにと戒められています。
体はこの世を生きるものです。体もこの世も大切なものですが、この世の価値観にしばられて神の国を見失うことがないようにこのたとえを語られたのではないでしょうか。その意味で今日の福音も先週のテーマとつながっているのです。      (柳本神父)