9月27日・年間第26主日 マタイ21章28~32節  神は考え直すのを待っておられる

今日のたとえ話は兄弟とぶどう園のたとえ話です。先週もぶどう園で働く話でしたが、今日の箇所はエルサレムに入城してからの出来事とされています。今日の福音の前に、祭司長や長老たちと権威についての問答があるので、彼らについて言われたたとえであるとも考えられます。

聖書に出てくる話には、兄が悪者であることが多いです。カインとアベル、エサウとヤコブ、放蕩息子のたとえ話など。イスラエルは家父長制ですから、長男が跡を継ぎ、権力を持つ社会です。しかし、旧約聖書では神に従う者が、福音では弱い人々が優先されるので、弱い立場である弟のほうが主人公になることが多いようです。
わたしは長男ですから、兄が悪者だとがっかりします。ところが、今日の話だけは兄が褒められるので少しうれしいです。このたとえ話が祭司長や律法学者に向けて語られたとすると、彼らは「兄」の立場ですから、逆のようにも思えますが、イエスは兄、弟に関係なく考え直すことを求められたのかもしれません。

先週のたとえ話と比べて考えてみましょう。「ぶどう園」はイスラエルの象徴、広い意味では「社会」を表すと考えられます。また、放蕩息子のたとえ話や先週のたとえ話と考え合わせると、「ぶどう園で働くこと」は「父なる神のもとで働く」というイメージでもあります。今日のたとえ話も、「言葉ではなく行いが大事」という教えのように思えますが、「徴税人や娼婦たち」が引き合いに出されていることから、「考え直す=悔い改める」ことがテーマであることは間違いないでしょう。
ここでは、洗礼者ヨハネを信じるかどうか、ということが問われています。なぜイエスの福音ではなく洗礼者ヨハネなのでしょうか。
洗礼者ヨハネは権力と富が支配するようになってしまった聖地エルサレムを捨て、荒れ野で悔い改めを呼びかけ、洗礼を授けていました。徴税人や娼婦は当時の罪びとの代表でした。祭司や律法学者、ファリサイ派の人々は、彼らは神にふさわしくないと、宗教的に存在を否定していました。しかし、洗礼者ヨハネは「回心すればだれでも救われる」と教え、そのような人々も招いたのです。その呼びかけに応えることがたとえ話の「考え直して神の勧めに従う」という態度だったのです。

洗礼者ヨハネの呼びかけはイエスの呼びかけでもあります。わたしたちはともすれば祭司や律法学者のように、人を否定することによって自分の立場を守ろうとします。インターネットで人の行為を非難するだけでなく、人格をも否定する書き込みをすることもその例でしょう。人を見るのではなく、神とのかかわりを見つめることによって回心への道夫が開けます。今からでも考え直して神の呼びかけに応えることができるのです。(柳本神父)