2月14日・年間第6主日 マルコ1章40~45節  隔ての壁を取り払う

今日の箇所も先週に続いていやしの奇跡です。今日は重い皮膚病の人がいやされます。「重い皮膚病」は以前の訳では「らい病」とされていました。現在では「ハンセン病」と呼ばれていますが、その病気にあたるかどうかは不明なので、このように訳されています。    
ハンセン病は感染する皮膚病として恐れられ、身体に変形を生じることから、感染への恐怖と相まって患者は差別を受けてきました。近代に治療法が確立されて完治する普通の病気となりましたが、現在でも偏見が残っています。

わたしは神学生時代、東京の多摩全生園を訪問したことがあります。そこは大規模なハンセン病療養所で、教会もありました。同じ聖堂でミサもプロテスタントの礼拝も時間を変えて行われていたそうです。園内に住んでおられる方は回復されていますが、身寄りがない、慣れ親しんだ仲間と過ごしたいなどの理由で住み続けておられます。差別や偏見を恐れて帰郷できない方もおられるようです。
以前、カトリック新聞に書いたのですが、全生園のある方がお話ししてくださいました。その方の家族は身内にハンセン病にかかった人がいることを隠していました。ところが、その方の姪御さん(お孫さんだったかもしれません)が、たまたまそのことを知って、親に内緒で会いに来てくれたというのです。ほんとうにうれしそうに話してくださいました。

今日の福音でイエスは「深く憐れんで」その人をいやされます。この「憐れみ」は単にかわいそう、気の毒にと思う以上に心から苦しみに共感する思いです。とくに、この人が皮膚病を患うことで、人々から罪びと扱いされ、社会から隔離されている状態を、怒りにも似た思いで受け止められたのではないでしょうか。
そのように、イエスの奇跡は苦しみを受けている人々への共感からなされます。それは、病気の人々を罪びととして見捨てている社会のあり方に対する怒りでもありました。神はこのような人々を見捨てられない、社会の中に築かれている隔ての壁を取り除かなければならない、というメッセージが奇跡のうちに込められています。

ハンセン病療養所に会いに行った少女の行為は、隔ての壁を乗り越える出来事でした。その意味でイエスの奇跡とつながっています。イエスは皮膚病の人をいやすことによって、その人を人々のもとに返されました。病気であるがゆえに隔てられていた社会との壁を取り払われたのです。
いま、新型コロナウイルスの感染への恐れから、感染者や医療従事者の方々への差別が起こっています。感染拡大を防止するために隔離することは必要ですが、感染者を責めたり中傷したりすることはあってはなりません。イエスが今おられたら、どのような態度を示されるかを考えてみるのもいいでしょう。  
                             (柳本神父)